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== 概要・沿革 ==
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静観園は、幕末に[[江戸幕府]]の命により移住した[[栗本鋤雲]]らが開いた別荘・庭園に由来する。
静観園は、幕末に[[江戸幕府]]の命により移住した[[栗本鋤雲]]らが開いた別荘・庭園に由来する。
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2015年8月28日 (金) 13:02時点における版

静観園(せいかんえん)は、北海道亀田郡七飯町字大川392にある日本庭園

概要・沿革

静観園は、幕末に江戸幕府の命により移住した栗本鋤雲らが開いた別荘・庭園に由来する。

1859年安政6年)の箱館港の開港に先立ち、ロシア帝国及び蝦夷地に対する北方防備の急を痛感した江戸幕府は、1856年(安政3年)箱館に諸術調所を設置し、弁天岬砲台亀田役所の土塁の築城工事を始めるとともに、水戸尾張紀州仙台秋田津軽松前等の各藩に対し蝦夷地の警備・開拓を命じた。安政5年幕府は警備・開拓を命じた各藩の謀叛、及び蝦夷地独立を危惧し、西国との国境警備や日光山輪王寺の警護を任されていた八王子千人同心に対し特命で箱館出兵を命じ、将軍徳川家定の奥医師であった栗本清兵衛(後の鋤雲)を筆頭に当時の七重大川(現・七飯町字大川)に移り、領地に五十嵐要輔(開拓指導者)が稲荷神社を祀ることから始まり念仏屋敷ともいわれた。その際の領地は七重浜から横津岳までの数百町歩に及び、広大な敷地に七重薬園や後の七重官園、主要部に別荘・庭園を造園した。これが現在の静観園の始まりである。

領地には本州にはみられない薬草が豊富に繁殖し、幕府に献上すると将軍が使う薬草として指定を受け、調査の結果薬草が豊富にあり気候や地質に適した薬園を七重御薬園と命名し吉野鐵太郎に園長を任せた。1861年(文久元年)七重御薬園の薬草を基に、医師である栗本鋤雲は北海道初の病院、箱館医学所を創設し、これが市立函館病院の前身であり、北海道医療発祥の地といえる。これらの功績を認められ栗本鋤雲は箱館奉行組頭を命じられる。1863年(文久3年)幕府は栗本鋤雲を江戸に戻し外国奉行就任を命じたが、配下の吉野鐵太は七重御薬園に残った。1872年(明治2年)土地の租借事件(ガルトネル開墾条約事件)をおこすリヒャルト・ガルトネルから取戻した土地(ガルトネル農場)と技術を継承し設置された試験農場・七重官園にも開拓使雇として尽力した「近代農業発祥の地」である。尚、吉野鉄太郎は、七重御薬園・ガルトネル農場・七重官園・親子園・静観園、全てに関わった人物である。

領地の管理にも従事していた宮崎重兵衛(八王子千人同心の一人)が後の静観園を譲り受けると、その子孫である宮崎松太郎、宮崎新太郎と引き継がれ昭和を迎えるに至った。宮﨑家は、明治中期から大正・昭和に亘り豪商(廻漕問屋)として栄華を極め、この時期名木・巨石を集め今日の庭園の体裁を整えたが、造園は吉野鐵太郎が行い壮大な庭園が完成する。1876年(明治9年)明治天皇の七重官園巡行を記念して植樹した赤松は、吉野鐵太郎が七重御薬園時代から育ててきた苗木であり、植樹に際しても鐵太郎が中心となったといわれている。植栽された赤松並木は現在「赤松街道」として七飯町(函館)の名所になっている。又、皇族山階宮武彦王(空の宮様)により「静観園」と命名され、その記念碑(昭和4年)が敷地に建立されている。

太平洋戦争終結後、農地法の施行により農地解放を余儀なくされ、敷地面積1万3千5百坪まで縮小された宮崎家では、静観園を小松重蔵(彩華デパート社長)に譲り、その後1971年(昭和46年)に内田和幸(大和観光株式会社会長)が譲り受け「大和静観園」に改称、遠州流の庭師を招き流派に適合した庭園に造作すると共に、北海道でも貴重な、日高地方の名石等約2千数百トンを投じ、また本州より数々の名木(樹齢数百年)を搬入し整備を行った。五十嵐要輔の祀った稲荷神社も官幣大社正一位永福稲荷大明神として鎮座し、毎年5月15日には八王子千人同心の子孫たちが集い盛大な祭りが行われていた。2014年(平成26年)に村口順健(金輪王寺)が譲り受け、呼称を元の「静観園」に戻し蔵王権現を祀った。

参考文献

・七飯町資料館/吉野鐵太郎について

・亀井勝一郎著/三人の先覚者

・桜井健治著/箱館奉行・栗本鋤雲

・桑原三二著/栗本鋤雲

・北海道総務部文書課編集/開拓に尽くした人びと・文化の黎明

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