「下方弥三郎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Physalis-02A (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{正確性|date=2015年4月|talk=Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/シェーラ}} |
|||
{{基礎情報 武士 |
{{基礎情報 武士 |
||
| 氏名 = 下方 弥三郎 |
| 氏名 = 下方 弥三郎 |
2015年4月28日 (火) 22:28時点における版
この記事の正確性に疑問が呈されています。 |
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 天正10年6月2日(1582年6月21日) |
氏族 | 下方氏 |
父母 | 父:下方貞清 |
下方 弥三郎(しもかた やさぶろう)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。
生涯
織田信長の家臣・下方貞清の子と伝わる。信忠の小姓として仕え、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際も信忠と共に二条御所にあった。弥三郎は明智光秀軍相手に奮戦して左足を負傷し、脇腹をやられて腸がはみ出していた[1]。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたという(『士林泝洄』3)。
信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死した[1]。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 史料
- 『士林泝洄』3