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2014年5月20日 (火) 06:05時点における版

津田氏(つだし)は、日本氏族。祖を異にする複数の系統がある。

平姓津田氏(織田氏系)

津田氏
家紋
横木瓜
本姓 桓武平氏資盛流
種別 武家
士族
出身地 近江国蒲生郡津田庄
著名な人物 津田信澄
津田信成
凡例 / Category:日本の氏族

近世大名の織田氏の出自を平氏とする説においては、平家の子孫が近江津田庄に逃れ津田姓を称し、その末裔がのちに越前に移住し織田氏となったとされるが、確証はない。この津田氏は織田氏と同族で、藤原氏忌部氏の系統が有力とされている。また藤掛氏も津田氏の一族である。

織田氏の直系から見て庶流に当たる一門は津田氏を名乗り、主家との区別を付けていた。例えば、織田信長の弟織田信勝(信行)の子津田信澄などである。また、同じく信長の一族津田信成は大名に列したものの、江戸時代前期に改易されている。

江戸時代にも、丹波柏原藩主織田家の庶子、出羽天童藩主織田家の庶子などに津田姓を称し、藩士に列した人物を確認できる。例えば、大和松山藩織田高長の五男津田頼房などである。

鳥取藩家老の津田氏も織田一族を名乗っている。初代は元綱で、その子・元房池田忠雄に従って8,000石を与えられた。3代・元匡池田光仲の移封に伴い、鳥取に移り、伯耆国八橋郡に所領を与えられた。元禄5年(1692年)、5代・元長の時に家老職に就いた。伯耆国八橋自分手政治明治維新まで続いた。菩提寺は八橋陣屋そばの体玄寺、現在も津田家の墓所が存在する。

改易された織田信重の子孫は細川氏に従い、豊前小倉藩及び肥後熊本藩の藩士となる。慶長から寛永年間に作成されたとする「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳並軽輩末々共に」の物奉行に「津田三十郎」、側小姓に「津田左兵衛」の名が見える他、熊本県立図書館所蔵の慶安元年(1648年)の『真源院様御代御侍免撫帳』に「1千石 津田三十郎」、「4百石 津田半右衛門」、「3百石 津田平丞」とある。幕末の『肥後細川家分限帳』では五家の津田家が確認できる。このうち、津田平助(1000石)家の津田平士は西南戦争熊本隊に従軍する。また津田信弘(山三郎、400石)は実学党に与し、奉行(参政)となる。

伊予橘姓津田氏(楠木氏系)

津田氏
家紋
菊水
本姓 橘氏楠木氏流
家祖 津田正信
種別 武家
地下人百姓
平民
主な根拠地 紀伊国
著名な人物 津田算長
津田出
凡例 / Category:日本の氏族

楠木正儀の養子、津田正信を祖とする。

戦国時代紀州根来衆を率いる津田算長は、種子島時尭より鉄砲を買い求め、関西への鉄砲伝来を実現させた。

1585年豊臣秀吉紀州征伐で当主津田算正杉ノ坊明算(自由斎)は討死にして、津田氏は没落した。その後は主家を転々とした後、紀州に帰農した。

また、幕末から明治初期に活躍した津田出陸軍卿代理、貴族院議員)と津田正臣(初代和歌山県知事)の兄弟も末裔と言われている。

源姓津田氏(斯波氏系)

加賀藩の家臣に津田氏を称する一族(家老職・1万石)があり、こちらは斯波氏の末裔を称している。祖は津田正勝津田義忠)で、斯波義近(津川義近か)の子だという。維新後、津田正邦が斯波姓に復して斯波蕃と名乗り、男爵を授けられている。

ちなみに斯波義銀(後に津川義近に改名)は織田信長に追放された守護であるが、弟の津川義冬織田信雄の義兄弟だったり、織田信包の子で伊勢林藩織田信重の舅であったり、四男の津川近治織田長益の婿であったりと織田家との関係は深い。

その他

日本刀の刀工にも津田姓の人物が見られる。江戸時代の津田越前守助広が有名である。

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