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「岩波新書」の版間の差分

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概要: 創刊赤版1、2を発刊
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== 概要 ==
== 概要 ==
創刊の作業は、当時の編集部の[[吉野源三郎]]が担当し、吉野が目にした[[イギリス]]の[[ペーパーバック]]である[[ペンギン・ブックス]]を参考に判型が決められた。装幀は吉野の依頼を受け、[[美学者]]・[[美術史]][[学者]]である[[児島喜久雄]]が担当。[[2006年]]まで長く用いられた[[表紙]]のランプや、[[本#本の構造|扉]]部分の四隅で[[風]]を吹きかけあう[[ギリシャ神話]]の[[風神]]を描いた。また創刊当初の表紙の色を赤一色にしたのは[[岩波茂雄]]の指示による。この赤版は戦争による一時中断を経て、101点刊行された<ref>「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1988年1月)岩波新書〈新赤版〉の各新書より。</ref>。[[1949年]]に出版点数が100を越えたのを機に<ref>1949年3月の「岩波新書の再出発に際して」。</ref>表紙を青(いわゆる青版<ref>表紙の装いは、上から横書きで著者名・書名・ランプ・新書名・数字で何点目、裏表紙は左側に縦に白色の波形が入りその他の部分は青で左下に水差しのカットに「イワナミ」を入れており、扉表紙は表紙の装いからランプを外したもので、周りを風神で囲んでいる。</ref>)に変更。
創刊の作業は、当時の編集部の[[吉野源三郎]]が担当し、吉野が目にした[[イギリス]]の[[ペーパーバック]]である[[ペンギン・ブックス]]を参考に判型が決められた。装幀は吉野の依頼を受け、[[美学者]]・[[美術史]][[学者]]である[[児島喜久雄]]が担当。[[2006年]]まで長く用いられた[[表紙]]のランプや、[[本#本の構造|扉]]部分の四隅で[[風]]を吹きかけあう[[ギリシャ神話]]の[[風神]]を描いた。また創刊当初の表紙の色を赤一色にしたのは[[岩波茂雄]]の指示による。この赤版は戦争による一時中断を経て、101点刊行された<ref>「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1988年1月)岩波新書〈新赤版〉の各新書より。</ref>。[[1949年]]に出版点数が100を越えたのを機に<ref>1949年3月の「岩波新書の再出発に際して」。</ref>表紙を青(いわゆる青版<ref>表紙の装いは、上から横書きで著者名・書名・ランプ・新書名・数字で何点目、裏表紙は左側に縦に白色の波形が入りその他の部分は青で左下に水差しのカットに「イワナミ」を入れており、扉表紙は表紙の装いからランプを外したもので、周りを風神で囲んでいる。</ref>)に変更。

岩波新書創刊第一冊目は、[[矢内原忠雄]]が[[リンカーン]]、[[エレミヤ]]、[[日蓮]]、[[新渡戸稲造]]などの伝記を『余の尊敬する人物』と題して構想しており、岩波の了解も得ての予定だったが急遽変更となり、[[1938年]](昭和13年)赤版1、2の上・下二冊としてクリスチーの『奉天三十年』(上・下)を翻訳で発刊した。<ref>[[鴨下重雄他]]編 『矢内原忠雄』 [[学生社]] 2011年 4ページ</ref>。


1950年代までは、小説作品が収められることもあった。([[横光利一]]『薔薇』(赤版)、[[趙樹理]]『結婚登記』(青版)など)
1950年代までは、小説作品が収められることもあった。([[横光利一]]『薔薇』(赤版)、[[趙樹理]]『結婚登記』(青版)など)

2014年3月14日 (金) 07:50時点における版

岩波新書(いわなみしんしょ)とは、日中戦争下の1938年11月に岩波書店が創刊した新書[1]古典を中心とした岩波文庫に対し、書き下ろし作品による一般啓蒙書を廉価で提供することを目的に創刊され、新書と呼ばれる出版形態の創始となった。

第二次大戦後、いわゆる新書という出版形態が定着するに伴い、1962年に創刊された中公新書1964年に創刊された講談社現代新書とともに教養新書御三家とも称された。世界で岩波新書に対比されるのは、フランスクセジュ文庫、イギリスのペンギンブックスドイツローヴォルト百科全書がある。広く時代が必要としている啓蒙をコンパクトなサイズと適任の実力執筆者が提供することにより、岩波文庫と並ぶ岩波書店の公共的資産となっている。

サイズは縦173mm、横105mmである。

概要

創刊の作業は、当時の編集部の吉野源三郎が担当し、吉野が目にしたイギリスペーパーバックであるペンギン・ブックスを参考に判型が決められた。装幀は吉野の依頼を受け、美学者美術史学者である児島喜久雄が担当。2006年まで長く用いられた表紙のランプや、部分の四隅でを吹きかけあうギリシャ神話風神を描いた。また創刊当初の表紙の色を赤一色にしたのは岩波茂雄の指示による。この赤版は戦争による一時中断を経て、101点刊行された[2]1949年に出版点数が100を越えたのを機に[3]表紙を青(いわゆる青版[4])に変更。

岩波新書創刊第一冊目は、矢内原忠雄リンカーンエレミヤ日蓮新渡戸稲造などの伝記を『余の尊敬する人物』と題して構想しており、岩波の了解も得ての予定だったが急遽変更となり、1938年(昭和13年)赤版1、2の上・下二冊としてクリスチーの『奉天三十年』(上・下)を翻訳で発刊した。[5]

1950年代までは、小説作品が収められることもあった。(横光利一『薔薇』(赤版)、趙樹理『結婚登記』(青版)など)

1960年代まではひもしおりが貼付されていたが、岩波文庫と同様に、1970年代からは紙しおりのはさみこみ(片面が新刊案内になっている)に変えられた。

1977年に青版の刊行が1,000点を越え、岩波新書創立40周年を迎えるのを期に黄色に改められた。

1982年からの新刊・重版は、赤版・青版も含めてカバーがかけられるようになり、いままでの表紙・裏表紙の装丁は、カバーに引き継がれた。

岩波新書創刊50年・総刊総数1,500点をもって、1988年に新赤版に改めた。1990年代中盤までは新赤版の裏カバーは赤地一色であったが、この頃裏カバーのデザインが白地に変更され、中心には赤い線でナンテンのマークが描かれるようになった。

2006年3月で新赤版の刊行が1,000点を迎え、同年4月の1,001点目の刊行となった柄谷行人世界共和国へ』から、装幀がリニューアルされた。書名と著書名を横書きから縦書きに改め、右上に風神Notusをあしらい、左下に「岩波新書 数字で何点目」、つや消しにするなど、長く用いられた児島喜久雄のデザインが改められ、「21世紀の教養新書」[6]として新たに出発することとなった。キャッチコピーは「変わりますが、変わりません」だった。このとき、裏カバーのバーコード、ISBNコード、定価の下にランプのマークが描かれるようになった。

著名な作品

旧赤版

青版

黄版

新赤版

  • 永六輔『大往生』238万部
  • 大野晋『日本語練習帳』(1999年)192万部
  • 暉峻淑子『豊かさとは何か』76万部
  • マーク・ピーターセン『日本人の英語』73万部
  • 永六輔『二度目の大往生』67万部
  • 石弘之『地球環境報告』51万部
  • 永六輔『職人』48万部
  • 大江健三郎『あいまいな日本の私』48万部
  • 五木寛之蓮如』39万部
  • 金田一春彦『日本語』(上・下)(新版1988年)上のみ39万部
  • 星野英一『民法のすすめ』(1998年)

(発行部数は2006年4月時点)

主な新赤版別冊

  • 岩波書店編集部編 別冊1『岩波新書の50年』(岩波新書別冊、1988年)
  • 岩波新書編集部 別冊5『岩波新書をよむ ブックガイド+総目録』(1998年)
  • 鹿野政直 別冊9『岩波新書の歴史 付・総目録1938〜2006』(岩波新書別冊、2006年)

他の新書レーベル

  • 岩波ジュニア新書 - 岩波新書のジュニア版として1979年に発足。中学生・高校生を主な読者対象としているが、啓蒙書として一般人でも読めるものが多い。
  • 岩波アクティブ新書 - 入門書としての知的関心にこたえる目的で、2002年に創刊されたが、数年で休止した。

脚注

  1. ^ 赤版として。創刊の辞は、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と引用されている。
  2. ^ 「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1988年1月)岩波新書〈新赤版〉の各新書より。
  3. ^ 1949年3月の「岩波新書の再出発に際して」。
  4. ^ 表紙の装いは、上から横書きで著者名・書名・ランプ・新書名・数字で何点目、裏表紙は左側に縦に白色の波形が入りその他の部分は青で左下に水差しのカットに「イワナミ」を入れており、扉表紙は表紙の装いからランプを外したもので、周りを風神で囲んでいる。
  5. ^ 鴨下重雄他編 『矢内原忠雄』 学生社 2011年 4ページ
  6. ^ 創刊の辞にも「現代人の現代的教養を刊行の目的とする」と謳っている。

外部リンク

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