「森下恵理」の版間の差分
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1981年、中学2年の時[[芸映]]の主催した「[[芸映#自社オーディション|HIDEKI(西城秀樹)の弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション]]」にて応募総数55460名の中から準優勝となる。[[松本伊代]]のヒット曲「センチメンタル・ジャーニー」を本選で歌い、サビの歌詞「伊代はまだ16だから」を一部変え「恵理はまだ14だから」と歌い、審査員の票を多く獲得したが、[[西城秀樹]]が[[石川秀美]]を強力にプッシュしたため準優勝にとどまった。 |
1981年、中学2年の時[[芸映]]の主催した「[[芸映#自社オーディション|HIDEKI(西城秀樹)の弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション]]」にて応募総数55460名の中から準優勝となる。[[松本伊代]]のヒット曲「センチメンタル・ジャーニー」を本選で歌い、サビの歌詞「伊代はまだ16だから」を一部変え「恵理はまだ14だから」と歌い、審査員の票を多く獲得したが、[[西城秀樹]]が[[石川秀美]]を強力にプッシュしたため準優勝にとどまった。 |
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このオーディションがきっかけでスカウトされ、[[BMG JAPAN|RVC(現BMG JAPAN)]]より、1985年6月21日、[[加藤和彦]]プロデュースによるシングル「ブルージン・ボーイ!」でデビュー。キャッチフレーズは『齧じってごらん、エキゾチック・フルーツERI』。王道のアイドル路線で、新人賞レースや雑誌で売り出された。同期のアイドルだった[[本田美奈子.|本田美奈子]]、[[中山美穂]]、[[網浜直子]]、[[井森美幸]]らと親交があった。その後、自分で曲を書き始め、シングル「Blue Eyesを抱きしめたい」でシンガーソングライターとしての活動を開始する。また、天然のキャラクターが受け、『[[POPマガジン]]』や『[[歌謡びんびんハウス]]』の司会をはじめ、数多くのバラエティー番組に出演し、[[バラドル]]として人気を得た。1989年、結婚を機に芸能界を引退。この年に長男を出産。 |
このオーディションがきっかけでスカウトされ、[[BMG JAPAN|RVC(現BMG JAPAN)]]より、1985年6月21日、[[加藤和彦]]プロデュースによるシングル「ブルージン・ボーイ!」でデビュー。オリコンのウィークリーチャート最高位29位を記録し、当時弱小事務所に所属しながら大健闘な成績だった。キャッチフレーズは『齧じってごらん、エキゾチック・フルーツERI』。王道のアイドル路線で、新人賞レースや雑誌で売り出された。同期のアイドルだった[[本田美奈子.|本田美奈子]]、[[中山美穂]]、[[網浜直子]]、[[井森美幸]]らと親交があった。その後、自分で曲を書き始め、シングル「Blue Eyesを抱きしめたい」でシンガーソングライターとしての活動を開始する。また、天然のキャラクターが受け、『[[POPマガジン]]』や『[[歌謡びんびんハウス]]』の司会をはじめ、数多くのバラエティー番組に出演し、[[バラドル]]として人気を得た。1989年、結婚を機に芸能界を引退。この年に長男を出産。 |
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1996年5月、'''Eri'''として、[[トイズファクトリー]]よりシングル「強くなれる」で再デビュー。アレンジ、プロデュースも自身が担当し、多くのCDをリリースした。[[EL-MALO]]とコラボをしたりもした。 |
1996年5月、'''Eri'''として、[[トイズファクトリー]]よりシングル「強くなれる」で再デビュー。アレンジ、プロデュースも自身が担当し、多くのCDをリリースした。[[EL-MALO]]とコラボをしたりもした。 |
2013年5月13日 (月) 14:20時点における版
森下恵理(もりした えり) Nobori Eri(のぼり えり) | |
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出生名 | 登恵里(のぼり えり) |
生誕 | 日本 1967年8月6日(57歳) |
出身地 | 北海道 |
ジャンル | J-POP |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 | ボーカル、キーボード |
活動期間 | 1985年 - |
レーベル |
RVC(現BMG JAPAN)(1985年 - 1989年) トイズファクトリー(1995年 - 2000年) TOM RECORDS(2008年 - ) |
事務所 |
ゆうせん企画(1985年 - 1989年) トイズファクトリー(1995年 - 2000年) 現在はフリー |
森下恵理(もりした えり、本名:登恵里、1967年8月6日- )は日本のシンガーソングライター、タレント。北海道札幌市出身。明治大学付属中野高校(定時制)卒業。
略歴
1981年、中学2年の時芸映の主催した「HIDEKI(西城秀樹)の弟妹募集!!全国縦断新人歌手オーディション」にて応募総数55460名の中から準優勝となる。松本伊代のヒット曲「センチメンタル・ジャーニー」を本選で歌い、サビの歌詞「伊代はまだ16だから」を一部変え「恵理はまだ14だから」と歌い、審査員の票を多く獲得したが、西城秀樹が石川秀美を強力にプッシュしたため準優勝にとどまった。
このオーディションがきっかけでスカウトされ、RVC(現BMG JAPAN)より、1985年6月21日、加藤和彦プロデュースによるシングル「ブルージン・ボーイ!」でデビュー。オリコンのウィークリーチャート最高位29位を記録し、当時弱小事務所に所属しながら大健闘な成績だった。キャッチフレーズは『齧じってごらん、エキゾチック・フルーツERI』。王道のアイドル路線で、新人賞レースや雑誌で売り出された。同期のアイドルだった本田美奈子、中山美穂、網浜直子、井森美幸らと親交があった。その後、自分で曲を書き始め、シングル「Blue Eyesを抱きしめたい」でシンガーソングライターとしての活動を開始する。また、天然のキャラクターが受け、『POPマガジン』や『歌謡びんびんハウス』の司会をはじめ、数多くのバラエティー番組に出演し、バラドルとして人気を得た。1989年、結婚を機に芸能界を引退。この年に長男を出産。
1996年5月、Eriとして、トイズファクトリーよりシングル「強くなれる」で再デビュー。アレンジ、プロデュースも自身が担当し、多くのCDをリリースした。EL-MALOとコラボをしたりもした。
2000年にバンドmonejiを結成し、ライブを中心に活動。2005年にインディーズでアルバム『MONEJI』を発売したが、メンバーの音楽性の違いからバンドは解散し、現在はNobori Eriとしてソロ活動中である。2008年夏、自身レーベルTOM RECORDSを設立。
ディスコグラフィー
森下恵理時代
シングル
- ブルージン・ボーイ!(1985年6月)オリコン最高位29位
- わたしは街のバレリーナ(1985年9月)オリコン最高位33位
- Hey!Baby(1986年2月)オリコン最高位55位
- サマータイム・グラフィティ(1986年7月)オリコン最高位45位
- Blue Eyesを抱きしめたい(1987年6月)オリコン最高位144位
- A Way of Escape(1988年3月)
アルバム
- ボーイ・フレンド(1985年10月)オリコン最高位114位(LP) ※2003年、インディーズレーベルVIVID SOUNDからCD化
- 嘆きのプリマドンナ(1988年3月)
以上、全てRVC(現BMG JAPAN)よりリリース
Eri時代
シングル
- 強くなれる(1996年5月)
- GREEN&RED(1996年11月)
- fall in loving time(1996年11月)
- love is no name(1999年5月)(デジタルツーカー九州「ついてる40」CM曲)
- The end of the world/Living in Heaven(1999年11月)
アルバム
- Blue(1996年6月)
- fall in loving time(1996年12月)
- only(1997年11月)
- everblue(1998年11月)
- spend ~run to run~(1999年12月)
以上、全てトイズファクトリーよりリリース
シングル
- pause(2008年9月)
Nobori Eriに改名
アルバム
- HARDflower (2012年6月)
TOM RECORDSよりリリース
moneji時代
- MONEJI(2005年)
インディーズよりリリース
テレビ番組
映画
- 未来忍者 慶雲機忍外伝(1988年) 主演:サキ姫
ドラマ
- 中森明菜・メロドラマ 「もう一度逢いたい 忘れられない恋人…」