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こうした立場を取るならば、因果的閉鎖性の破れやエネルギー保存則と関わる批判をかわすことはできる。しかしそうした統計的な法則に従う収縮過程をもたらす精神の作用というのは一体どういうものなのか(つまりそんな作用があるとして、それは私たちが考える一般的な意味での自由意志と一体どういう関係にあるのか)といった議論がなされる。 |
こうした立場を取るならば、因果的閉鎖性の破れやエネルギー保存則と関わる批判をかわすことはできる。しかしそうした統計的な法則に従う収縮過程をもたらす精神の作用というのは一体どういうものなのか(つまりそんな作用があるとして、それは私たちが考える一般的な意味での自由意志と一体どういう関係にあるのか)といった議論がなされる。 |
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==疎外論と幻想論== |
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日本の思想家・[[吉本隆明]]は、観念論や唯物論の対立を乗り越えるために、疎外論を用いた心身二元論を展開している。疎外とは、そこから派生するがそこには還元されないと言う意味である。意識は身体がないと発生しないが、脳のような身体の部分部分には還元できない。生命体の身体は、機械のように要素や各部分に分解して、また組み立てなおすことはできない。分解したら死んでしまい、意識は消え、生命体ではなくなってしまうからである。要素性ではなく、身体的な全体性こそが生命現象や意識の本質なのである。よって、身体と精神は相対的に自立していると考えている。 |
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吉本は、すべての生命体を<原生的疎外>と呼び、自然から疎外されたものあるから、自然科学的には心的現象や[[フロイト]]の[[エス]]は観察できないと述べている。エスや心的現象とはもともと物質ではないのである。しかし、自然科学的に観察できないからと言って、存在しないわけではないし、オカルト的なものでもない。文学や芸術が自然科学的に説明できないにもかかわらず、確実に存在するのと同じである。心身二元論を自然科学者が否定的なのは当然であり、それはもともと自然科学的カテゴリーではないからである。物理的現象ではないために、因果的閉鎖性など最初から考える必要がないのである。脳の動きが物理的な作用によらずに動き始めたら超能力だと言うが、生命とはもともとそういうものであり、無生物がなにも物理的な力を加えずに動き始めたら確かに超能力だが、生命体が自分の意思で自分自身の身体を動かす分にはなんの矛盾も問題もない。 |
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心的現象とは自然科学的に<観察>するのではなく、文学や芸術のように人文科学的に<了解>することによって始めて出現するのである。吉本は心的現象とは<幻想>であり、自然科学では取り扱えないために、幻想は幻想として取り扱わなくてはならないと指摘している。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2010年4月13日 (火) 13:58時点における版
実体二元論(じったいにげんろん、英:Substance dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体がある、という考え方。実体二元論という一つのはっきりとした理論があるわけではなく、一般に次の二つの特徴を併せ持つような考え方が実体二元論と呼ばれる。
- この世界には、肉体や物質といった物理的実体とは別に、魂や霊魂、自我や精神、また時に意識、などと呼ばれる能動性を持った心的実体がある。
- そして心的な機能の一部(例えば思考や判断など)は物質とは別のこの心的実体が担っている
代表的な実体二元論として17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトの唱えた理論「我思う、ゆえに我あり」がある。これはデカルト二元論(Cartesian dualism)と呼ばれ、実体二元論の代表的理論として取り扱われている[1]。
実体二元論は時に心身二元論とも言われる。また単に二元論とだけ表現されることもある。しかし二元論という言葉は現代の二元論(たとえばチャーマーズの自然主義的二元論など)のことを指すのにもしばしば使用われるめ、若干注意が必要である(実体二元論と現代的な二元論との間の違いについては物理主義の項目で説明している)。
歴史的に直近に、実体二元論を唱えた人物としては、20世紀のオーストラリアの神経生理学者ジョン・エックルズ[2]が有名である。エックルズはしばしば、最後の二元論者として扱われる[3]。
実体二元論は歴史的・通俗的には非常にポピュラーな考えではあるが、現代の専門家たちの間でこの理論を支持するものはほとんどいない[4][5][6][7][8]。その理由は端的にガリレイ・ニュートン以後蓄積されてきた自然科学の知識と整合性を持ってこの理論を主張することが難しいためである。
歴史
問題点
因果と関わる問題点
実体二元論で問題となるのは、まず何より因果と関わる問題である。物質と精神を完全に別の二つの実体とすると、両者の間の関係を考える必要が出てくる。この関係を相互作用と考えるならば、物質は物理法則のみに従って運動する、という科学上の基本的な前提と整合的に理解することが難しい。また精神が物質に命令を与えるという考え方は、時間の前後関係について、自発的な運動についての準備電位の観測結果と整合的に理解することが難しい。以下、これらの点について説明する。
因果的閉鎖性
デカルト的な二元論は、現代科学の哲学的な基礎を作ったが、同時にそれら科学が発達を続けていくにつれ、徐々にその信頼性を失っていく事となる。科学が発展していくにつれ、この世界で生起している現象はすべて物理法則にしたがって生起している、という考えが科学者たちの間で広く受け入れられていくが、このことがデカルト的な二元論のもつ理論的な困難を際立たせていった。
デカルトは松果体において、物質と精神が相互作用する、とした。しかし仮にこうした相互作用があるとするならば、その領域においては、物理法則で規定されるのとは異なった現象が何か確認されることとなる。つまり物理的な現象に原因を持たない現象がそこで確認される、ということとなる。しかしこれは物理領域の因果的な閉鎖性を否定することと等価であり、この主張を現代の科学上の知見と矛盾なく理解することは難しい。
この相互作用の問題は、デカルトが理論を提出した当初にすでに指摘されていたが、科学が発展を続けていくなかで、よりハッキリとした問題として自覚されていくこととなる。
エネルギー保存則
アメリカの哲学者ダニエル・デネットは、1992年の著作 "Consciousness Explained"(邦訳「解明される意識」)の中で、因果的閉鎖性を破るような心身の相互作用はもしそうしたものがあるとすれば、エネルギー保存則をやぶることになる、と説明した。これは哲学者がいう「因果的閉鎖性を破る」という事が具体的にどういう意味なのか、という事を科学者を含むより広い範囲の人々に分かりやすく説明しなおした議論である。仮に脳内のどこかで、今まで静止していたものが、何の物理的な力も受けずに突然動き出したり、また今まで動いていたものが、何の力も受けずに突然静止したりするなら、そこではエネルギー保存則がやぶれている。だから、非物質的な精神が物理的なものに影響を及ぼすという考えは、よく確かめられた物理学の基本法則と矛盾するものであり、「考えただけでコップを中に浮かすことが出来る」といったサイコキネシスや超能力の実在を主張するのと何も変わりない、そうデネットは説明した。
準備電位
実体二元論においては、熱いものに触って手を引っ込めるといった単純な反射を除いた、人間の意図的な行動というのは、脳とは別の精神からの指令によって引き起こされるものとされる。しかしこの点に関して大きい理論的困難を与えることとなる実証実験が1980年代に行われた。アメリカの神経科学者ベンジャミン・リベットによって行われた運動準備電位(独:Bereitschaftspotential, 英:rediness potential)についての一連の研究である。
ひとつの自己に関する問題点
実体二元論では一人の人が、または一つの脳が、分割できないひとつの精神を持つとする。しかしこうした分割不可能な一つの精神、という考えは実際の様々な病気や臨床例を見ていくと、それらと整合的に理解していくことは難しい。以下、そうした点について説明する。
分離脳
高次脳機能障害
実体二元論においては、思考、判断、言語機能といった高次の精神機能は、物質的な脳ではなく、非物理的な精神によってになわれるとした。これはデカルトが述べた、精神を持たない人間、の話を見てみると分かるが、デカルトは精神を持たない人間は、ごく単純な反応しか返すことが出来ず、様々な場面での適切な振る舞い(礼儀作法など)は行えないだろう、と考えていた[9]。つまり人間の持つ様々な高次機能は、非物理的な精神が一手に引き受けている、という捉え方をしていた。
しかし神経科学や医療現場で、様々な臨床例が集まり始めるにつれ、人間の高次機能に対するそうした単純な考え方は、徐々に維持するのが難しくなっていった。それは人間の持つ様々な高次機能が、選択的に破壊されることが分かってきたからである。例えば、耳は聞こえ、言葉を口にすることも出来るのに、人の話を理解することが出来なくなる事例や(ウェルニッケ失語:ウェルニッケ野を中心とする領域の損傷で引き起こされる)、また古いことは覚えているのに、新しいことを覚える能力が失われる例(前向性健忘:海馬を中心とする側頭葉内側部の損傷で引き起こされる)など、脳の部分部分の障害が、人間の持つ高次機能の一部だけを選択的に失わせていくような例が、多数調べられ、情報として蓄積されてきた。脳機能局在論なども参照のこと。
概念上の批判
イギリスの哲学者ギルバート・ライルは、1949年の著作"The Concept of Mind"(邦訳:『心の概念』)において、実体二元論を概念上の混乱として批判した。ライルは脳とは別に、実体としての精神を措定するデカルト的な二元論を、機械の中の幽霊のドグマと呼び、カテゴリー・ミステイクという概念上の混乱によってもたらされた大きな誤りであるとした。
発展
以上あげたような困難が山積するため、実体二元論は現在、科学者からも哲学者からも、最も人気のない立場となっている。しかしまだこの方向での探求も終わることなく続けられている。
現在得られている科学上の知見と整合的な形で、実体二元論の立場を主張できると考えられている方法として、量子力学の確率過程に頼る方法がある。つまり波動関数の収縮過程において、精神(と呼ばれることになる何か)が、物理領域に影響を与えるのではないか、という考えである。こうしたアイデアは量子脳理論と呼ばれる領域で考察の対象となっている。
こうした立場を取るならば、因果的閉鎖性の破れやエネルギー保存則と関わる批判をかわすことはできる。しかしそうした統計的な法則に従う収縮過程をもたらす精神の作用というのは一体どういうものなのか(つまりそんな作用があるとして、それは私たちが考える一般的な意味での自由意志と一体どういう関係にあるのか)といった議論がなされる。
疎外論と幻想論
日本の思想家・吉本隆明は、観念論や唯物論の対立を乗り越えるために、疎外論を用いた心身二元論を展開している。疎外とは、そこから派生するがそこには還元されないと言う意味である。意識は身体がないと発生しないが、脳のような身体の部分部分には還元できない。生命体の身体は、機械のように要素や各部分に分解して、また組み立てなおすことはできない。分解したら死んでしまい、意識は消え、生命体ではなくなってしまうからである。要素性ではなく、身体的な全体性こそが生命現象や意識の本質なのである。よって、身体と精神は相対的に自立していると考えている。
吉本は、すべての生命体を<原生的疎外>と呼び、自然から疎外されたものあるから、自然科学的には心的現象やフロイトのエスは観察できないと述べている。エスや心的現象とはもともと物質ではないのである。しかし、自然科学的に観察できないからと言って、存在しないわけではないし、オカルト的なものでもない。文学や芸術が自然科学的に説明できないにもかかわらず、確実に存在するのと同じである。心身二元論を自然科学者が否定的なのは当然であり、それはもともと自然科学的カテゴリーではないからである。物理的現象ではないために、因果的閉鎖性など最初から考える必要がないのである。脳の動きが物理的な作用によらずに動き始めたら超能力だと言うが、生命とはもともとそういうものであり、無生物がなにも物理的な力を加えずに動き始めたら確かに超能力だが、生命体が自分の意思で自分自身の身体を動かす分にはなんの矛盾も問題もない。
心的現象とは自然科学的に<観察>するのではなく、文学や芸術のように人文科学的に<了解>することによって始めて出現するのである。吉本は心的現象とは<幻想>であり、自然科学では取り扱えないために、幻想は幻想として取り扱わなくてはならないと指摘している。
脚注
- ^ Pete Mandik "Substance dualism" Dictionary of Philosophy of Mind 2004年 以下冒頭文より引用 "Perhaps the most famous proponent of substance dualism was Descartes"
- ^ カール・ポパー (著), ジョン・C・エックルス (著), 大村裕 (翻訳), 沢田允茂 (翻訳), 西脇与作 (翻訳) 『自我と脳』 新装版 新思索社 2005年 ISBN 978-4783501374
- ^ 芋阪直行編 下條信輔・佐々木正人・信原幸弘・山中康裕著 『意識の科学は可能か』 p.9 新曜社 2002年 ISBN 4788508001
- ^ ジョン・サール著 山本貴光・吉川浩満 訳 『MiND 心の哲学』 朝日出版社 2006年 ISBN 4-255-00325-4 第二章 第一節 「二元論の困難」pp.64-72 以下p.64より引用。「実体二元論に基づけば、肉体が滅びた後も魂は生きつづけられるという結論が導かれる。そしてここから、死後の生があると信じる信仰者たちに訴えるものの見方が生み出される。だが専門家たちのあいだでは、実体二元論はもはや検討にも値しないと考えられている。」
- ^ ダニエル・デネット著 山口泰司 訳 『解明される意識』 青土社 1998年 ISBN 4-7917-5596-0 第二章 第四節「二元論はなぜ見捨てられるのか」pp.50-58
- ^ 西脇与作 『もの、命、心の科学と哲学<下>』「第二節 現代の常識はデカルトの意見」 オンラインマガジンゑれきてる 東芝発行 2004年
- ^ Nicholas Everitt "Substance Dualism and Disembodied Existence" Faith & Philosophy, Vol. 17, No. 3 (2000), pp. 331-347. 以下冒頭文より引用 "Substance dualism, that most unpopular of current theories of mind,"
- ^ スーザン・ブラックモア(著)、山形浩生,守岡桜(訳)『「意識」を語る』NTT出版 (2009年) ISBN 4757160178(翻訳元は "Conversations on Consciousness" (2007). Oxford University Press. hardcover: ISBN 0195179595 。意識に関する二つの大きな国際会議、ツーソン会議とASSCの会場で、様々な分野の研究者20人にインタビューした記録をまとめた本。以下前書き(pp. 10-11)より引用「ハード・プロブレムとは、物理的プロセスがいかにして主観的経験を生み出せるかを理解するのがむずかしいということ。(中略)誰もこの質問に対する答えを持ち合わせていませんでした。答えを知っているつもりとおぼしき人はいましたが。(中略)でも、どんなに混乱が根深いかを明かしてくれただけでも、この質問をした価値はあったと思います。ひとつだけほぼ全員が同意したのは、古典的な二元論はあてはまらないということです。(中略)心と体-脳と意識-が異なる物質であるはずがないのです。」
- ^ 以下、Kirk, Robert, "Zombies - 1. The idea of zombies", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2009 Edition), Edward N. Zalta (ed.) より引用 "Descartes held that non-human animals are automata: their behavior is explicable wholly in terms of physical mechanisms. He explored the idea of a machine which looked and behaved like a human being. Knowing only seventeenth century technology, he thought two things would unmask such a machine: it could not use language creatively rather than producing stereotyped responses, and it could not produce appropriate non-verbal behavior in arbitrarily various situations (Discourse V). For him, therefore, no machine could behave like a human being. He concluded that explaining distinctively human behavior required something beyond the physical: an immaterial mind, interacting with processes in the brain and the rest of the body."
関連項目
関連文献
日本語のオープンアクセス文献
- 小林道夫 「デカルトの心の哲学」 科学基礎論研究, Vol. 25 (1997) No. 1 pp.9-15
- 立花 希一 「デカルトの物心二元論再考」 秋田大学教育文化学部研究紀要 人文科学・社会科学 Vol. 63 (2008) pp.1-12
- 松田 克進 「デカルト的二元論は独我論に帰着するか」 哲学 Vol.1995, No.46 (1995) pp.60-69
- 宗像 惠 「デカルトの心身二元論再考」 哲学 Vol.1987, No.37 (1987) pp.36-57
- 米虫 正巳 「「魂」の存在は何故「第一原理」と言われるのか」 哲学, Vol. 1995, No. 46 (1995) pp.50-59
外部リンク
- descmind - インターネット哲学百科事典「Descartes: The Mind-Body Distinction」の項目。