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'''伊東 祐松'''(いとう すけます、生年不詳 - [[天正]]6年([[1578年]]))は[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]の武将。相模守。'''帰雲斎'''。[[伊東祐梁]]([[伊東尹祐]]の弟)の子。[[伊東祐梁]](相模守)の父。[[伊東祐信]]の祖父。[[日向国|日向]]の[[戦国大名]][[伊東氏]]の一族。 |
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天正3年([[1575年]])、[[島津氏]]に圧迫された[[肝付兼亮]]の提案によって伊東氏は[[肝付氏]]と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領[[南郷町 (宮崎県)|南郷]]を奪うために仕組んだものであったと言われる。 |
天正3年([[1575年]])、[[島津氏]]に圧迫された[[肝付兼亮]]の提案によって伊東氏は[[肝付氏]]と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領[[南郷町 (宮崎県)|南郷]]を奪うために仕組んだものであったと言われる。 |
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伊東氏の衰退期には、[[須木城]]主の[[米良矩重]]や[[高鍋城|財部城]]主の[[落合兼朝|落合民部少輔]]など、祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。主家没落時は義祐に従って豊後に退去、翌年に[[日向市|三城]]で死去した。 |
伊東氏の衰退期には、[[須木城]]主の[[米良矩重]]や[[高鍋城|財部城]]主の[[落合兼朝|落合民部少輔]]など、祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。主家没落時は義祐に従って[[豊後国|豊後]]に退去、翌年に日向の[[日向市|三城]]で死去した。 |
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2010年3月14日 (日) 01:06時点における版
伊東 祐松(いとう すけます、生年不詳 - 天正6年(1578年))は戦国時代から安土桃山時代の武将。相模守。帰雲斎。伊東祐梁(伊東尹祐の弟)の子。伊東祐梁(相模守)の父。伊東祐信の祖父。日向の戦国大名伊東氏の一族。
父の祐梁は大永3年(1523年)に兄の尹祐の後を追うように死去している。
天文2年(1533年)、伊東祐充の没後に叔父の伊東祐武(武蔵守)が乱を起こしたときは従兄弟の祐清擁立派として働いた(武州の乱)。伊東祐吉の没後に義祐(祐清)が家督を継ぐと、その側近となった。家中では義祐と同等の権勢を振るい、余剰米の横領などで数多くの家臣から恨みを買った。
元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで伊東氏が大敗したときは、孫の祐信が戦死している。同年には飫肥城において伊東祐兵の後見役となっていた子の祐梁も死去した。
天正3年(1575年)、島津氏に圧迫された肝付兼亮の提案によって伊東氏は肝付氏と空砲を使った偽装の戦闘を行ったが、伊東方が約束に反して実弾を用いたので肝付勢は全滅し、両家は義絶に至った。この事件は祐松が肝付領南郷を奪うために仕組んだものであったと言われる。
伊東氏の衰退期には、須木城主の米良矩重や財部城主の落合民部少輔など、祐松に対する私怨から島津氏に寝返る者も多く出ている。主家没落時は義祐に従って豊後に退去、翌年に日向の三城で死去した。