コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「工藤氏」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
ちちぶ (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Nalc (会話 | 投稿記録)
15行目: 15行目:


== 概要 ==
== 概要 ==
工藤氏は[[藤原南家]]の流れである。[[仁寿]]8年([[852年]])に[[藤原為憲]]の官職が「[[木工寮|木工助]]」であったため「工藤大夫」と称したのが源流。その後、駿河に移住した[[駿河国|駿河]]工藤に対して、東[[伊豆国|伊豆]]に移動した工藤氏の一派が「伊豆工藤」と称した。この「伊豆工藤」は後に「[[伊藤]]」となる。また工藤行政という人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称した。よって[[二階堂氏]]も同祖である。伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、[[煙山氏]]、[[葛巻氏]]、[[田頭氏]]など多くの分派を広げた
工藤氏は[[藤原南家]]の流れである。[[仁寿]]8年([[852年]])に[[藤原為憲]]の官職が「[[木工寮|木工助]]」であったため「工藤大夫」と称したのが源流。


その後、駿河に移住した[[駿河国|駿河]]工藤に対して、東[[伊豆国|伊豆]]に移動した工藤氏の一派が「伊豆工藤」と称した。この「伊豆工藤」は後の「[[伊藤]]」姓の由来といわれる。伊豆における工藤氏は[[平安時代]]から[[鎌倉時代]]にかけて勢力の伸張にしたがい[[狩野氏]]、[[伊東氏]]、[[河津氏]]などそれぞれの地名を苗字とするようになった。中でも伊東氏は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[日向国|日向]]に移住し大きく栄えた。

[[工藤行政]]という人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称し[[二階堂氏]]となった。

伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、[[煙山氏]]、[[葛巻氏]]、[[田頭氏]]など多くの分派を広げた。
<!-- それらが藤原南家の工藤氏の末裔とは限らないので
現在は[[北海道]]、[[北東北]]・[[東九州]]に多く分布する([[青森県]]では最も多い姓)。
現在は[[北海道]]、[[北東北]]・[[東九州]]に多く分布する([[青森県]]では最も多い姓)。
-->


== 家紋 ==
== 家紋 ==

2010年3月14日 (日) 00:48時点における版

工藤氏
家紋
庵に木瓜
本姓 藤原南家為憲流
種別 武家
支流、分家 伊藤氏武家
長野工藤氏武家
二階堂氏武家
伊東氏武家
栗谷川氏(厨川氏)(武家
入江氏武家
吉川氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

工藤氏(くどうし)は、日本氏族のひとつ。

概要

工藤氏は藤原南家の流れである。仁寿8年(852年)に藤原為憲の官職が「木工助」であったため「工藤大夫」と称したのが源流。

その後、駿河に移住した駿河工藤に対して、東伊豆に移動した工藤氏の一派が「伊豆工藤」と称した。この「伊豆工藤」は後の「伊藤」姓の由来といわれる。伊豆における工藤氏は平安時代から鎌倉時代にかけて勢力の伸張にしたがい狩野氏伊東氏河津氏などそれぞれの地名を苗字とするようになった。中でも伊東氏は南北朝時代日向に移住し大きく栄えた。

工藤行政という人物が鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に"二階堂"を称し二階堂氏となった。

伊豆工藤氏から分かれた奥州工藤氏は後に「栗谷川氏(厨川氏)」を名乗り、煙山氏葛巻氏田頭氏など多くの分派を広げた。

家紋

工藤家の家紋は「庵に木瓜」である。庵とは簡素な家、仮住まいのようなちいさな家のこと指す。なぜ庵を家紋にしたのか未だに明らかにされていないが、理由の一つとして「家」を強く表示するためと言われている。その証しに、庵だけで紋を構成することは少なく、その家の本紋を組み込んでいる。木瓜を木工に通わせ木工助の職名を表わした。それを家の形で示し意味を強調した。また、工藤家の家紋の中には丸に木瓜という物もある。(庵だけで紋を構成しているのは本家だけという説がある)

工藤一族

系図

工藤維景維職祐隆
┣━━┳━━┳━━┓
祐家 祐継 家光 茂光
┃  ┃
祐親 祐経
┃  ┣━━┓
祐泰 祐時 祐長

関連リンク

');