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== 音吉を題材とした本 == |
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* 「海商 異邦の人ジョン・M・オトソン」([[柳蒼二郎]]著) |
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* 「にっぽん音吉漂流記」([[春名徹]]著) |
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* 「海嶺」([[三浦綾子]]著) |
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2009年12月4日 (金) 13:19時点における版
音吉(おときち、文政2年(1819年) - 慶応3年(1867年)1月18日)は、江戸時代の水主・漂流民。
略歴
1819年(文政2年)尾張国知多郡小野浦(現愛知県知多郡美浜町)に生まれる。 天保3年(1832年)10月、宝順丸(船頭樋口重右衛門)が江戸に向けて鳥羽に出航(乗組員船頭以下13名)したが、途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく陸地に漂着したときには、生存者は音吉を含め岩吉(旧姓岩・松尾張国熱田出身)、久吉の3名のみであった。アメリカ太平洋岸のオリンピック半島・フラッタリー岬付近にたどり着いた彼らは現地のアメリカ・インディアン(マカー族)に救助される。インディアンは彼らをイギリス船に売り飛ばし、代わりに金物を得た。このイギリス船はハドソン湾会社の持船で、3人を救助した情報はただちにロンドンへ届けられる。会社は費用を負担して3人をマカオ行きのゼネラル・パーマー号に乗せることにした。途中、ロンドンに着いた彼らはテムズ川で10日間の船上にとどまっていたが、許されて1日ロンドン見学を行っている。彼らがロンドンの地に最初に上陸した日本人であった(ただし、日本人として最初に世界一周をした若宮丸の津太夫ら4人がロンドンに寄航しているが上陸は許されていなかったので、音吉ら3人が最初にイギリスへ上陸した日本人となる)。
1835年12月、パーマー号はマカオにつき、彼らはドイツ人宣教師チャールズ・ギュッラフに預けられる。そして音吉ら3人はチャールズ・ギュッラフと協力し世界で最初の邦訳聖書を完成させる。1837年3月、薩摩の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人がマカオに届けられ異国で同胞たちと対面した。同年6月、7人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発し那覇まで来る。ここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かう。
7月30日、同船が三浦半島の御崎の南方に達したとき予期せぬ砲撃にさらされる。これがモリソン号事件である。この事件に触発されて渡辺崋山、高野長英らが幕府の政策を批判する著書を記す。結局モリソン号は通商はもとより、漂流民たちの返還もできずマカオに戻った。彼らは再びチャールズ・ギュッラフの元に預けられる。1838年(天保9年)アメリカ合衆国へ行く。
その後、音吉は上海に渡り、デント商会に勤めた。その後1849年(嘉永2年)イギリスの軍艦マリナー号で浦賀へ行く。また、1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したとき、再度来日し通訳を務めた。この頃にはジョン・マシュー・オトソンと名乗っていた。
その後マレー人と結婚。1862年(文久2年)はじめ音吉は上海を離れ、シンガポールへ移住し、その地で幕府の遣欧使節団の森山栄之助らに会っている。1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールにて病死。享年49。
ちなみに、息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)に日本に帰り、横浜で入籍許可を得て名前は「山本音吉」となった。
音吉を題材とした本
- 「海商 異邦の人ジョン・M・オトソン」(柳蒼二郎著)
- 「にっぽん音吉漂流記」(春名徹著)
- 「海嶺」(三浦綾子著)
- 歴史絵本「日本に帰れなかった男たち」(文:大森仁/東田麻希 墨絵:田家阿希雄)
- 「Global Drifters」(英訳版)