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'''石田 捨雄'''(いしだ すてお、 - [[2002年]](平成14年)[[7月20日]])は、[[日本]]の[[愛知県]]出身の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]及び[[海上自衛隊|海上]][[自衛官]]である。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業(64期)。第9代[[海上幕僚長]]。妻は[[有馬正文]]中将の長女百合子である。


海軍時代に特筆される戦功は[[キスカ島撤退作戦]]がある。この作戦において[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]の水雷長として乗り組み(同じ阿武隈には第12代海上幕僚長となる[[大賀良平]][[少尉]](当時)も乗り組んでいた)[[キスカ島]]守備隊5,600名の救出に成功した。
海軍時代に特筆される戦功は[[キスカ島撤退作戦]]がある。この作戦において[[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]の水雷長として乗り組み(同じ阿武隈には第12代海上幕僚長となる[[大賀良平]][[少尉]](当時)も乗り組んでいた)[[キスカ島]]守備隊5,600名の救出に成功した。

2009年10月3日 (土) 06:26時点における版

石田 捨雄
生誕 愛知県
死没 2002年7月20日
所属組織 大日本帝国海軍
海上自衛隊
軍歴 1937 - 1945(日本海軍)
1952 - 1973(海自)
最終階級 海軍少佐(日本海軍)
海上幕僚長たる海将(海自)
指揮 大湊地方隊総監(海自)
戦闘 太平洋戦争
*キスカ島撤退作戦
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石田 捨雄(いしだ すてお、 - 2002年(平成14年)7月20日)は、日本愛知県出身の海軍軍人及び海上自衛官である。海軍兵学校卒業(64期)。第9代海上幕僚長。妻は有馬正文中将の長女百合子である。

海軍時代に特筆される戦功はキスカ島撤退作戦がある。この作戦において阿武隈の水雷長として乗り組み(同じ阿武隈には第12代海上幕僚長となる大賀良平少尉(当時)も乗り組んでいた)キスカ島守備隊5,600名の救出に成功した。

海上幕僚長時代には、防衛研究所に入校中の学生が発表した論文が問題となる一幕があった。これは当時、バイカル・アムール鉄道(第2シベリア鉄道)の建設に日本政府が援助をするかどうかの問題について、防衛上の見地から資材等の援助には慎重であるべき、との内容であった。これを当時の防衛庁長官は問題視し石田海幕長を呼び出して当該人物を処分せよと迫ったが、これは学生の研究成果であるとして拒否。なおも長官から処分を求められるも断固として拒否の姿勢を示し続け、政治家による人事への不当な介入と防衛上の研究に対する政治の過度の干渉または妨害から文民統制のあるべき姿を守ろうとした。

略歴

海軍兵学校教官兼監事
5月:海上幕僚監部総務部長

参考文献

  • 世界の艦船』2002年5月増刊号 海上自衛隊の50年(海人社)
先代
内田一臣
海上幕僚長
第9代:1972年 - 1973年
次代
鮫島博一
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