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小説は、史実とは必ずしも一致しない |
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*「千世と与一郎の関ヶ原」佐藤雅美著 講談社2009年1月26日初版 |
*「千世と与一郎の関ヶ原」佐藤雅美著 講談社2009年1月26日初版 |
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*「利休七哲(細川三斎:休無・細川忠隆の遺書 左方郁子著)」黒部亨 |
*「利休七哲(細川三斎:休無・細川忠隆の遺書 左方郁子著)」黒部亨編集 講談社1990年3月 |
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2009年2月15日 (日) 11:22時点における版
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 |
生誕 | 天正8年(1580年) |
死没 | 正保3年8月1日(1646年9月10日) |
改名 | 熊千代、忠隆 |
別名 | 与一郎(通称)、長岡休無(隠居号) |
墓所 | 大徳寺高桐院、熊本市島崎 |
官位 | 従四位下侍従 |
主君 | 廃嫡前も父忠興のほかは主君は無い |
氏族 | 細川氏(清和源氏)、長岡氏 |
父母 | 父:細川忠興 母:明智光秀の三女・玉(洗礼名:ガラシャ) |
兄弟 | 細川忠隆、細川興秋、細川忠利、 細川立孝、細川興孝、 おちょう(前野景定室)、こほ(松井興長室)、 たら(稲葉一通正室)、まん(烏丸光賢室) |
妻 | 正室:前田利家の娘・千世 継室:長谷川求馬(伊豆)の娘・喜久 |
子 | 熊千代、徳(西園寺実晴室)、吉、 福(久世通武室)、万、長岡忠恒(次男)、 長岡忠春(三男) |
細川 忠隆/ 長岡 休無(ほそかわ ただたか/ながおか きゅうむ)は、安土桃山時代から江戸時代の細川氏武将である。細川忠興の長男で、母は明智光秀娘の玉(洗礼後の細川ガラシャ)。正室は前田利家の娘の千世。1604年(慶長9年)廃嫡後は長岡休無と号した[1]。廃嫡前の官位は従四位下侍従。 文武に優れ、祖父細川幽斎にも可愛がられており、1599年(慶長4)に幽斎が烏丸光広や中院通勝らを招いて天橋立見物の和歌会をした際にも加わり、忠隆が詠んだ和歌短冊が丹後の智恩寺に現存する[2]。
廃嫡事件
1600年(慶長5年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠興の妻ガラシャに対して人質となるよう迫った。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決したが、忠隆妻の前田千世は姉・豪姫のいる隣の宇喜多屋敷に逃れる。
その頃、忠隆は、忠興とともに会津遠征や岐阜城攻撃の途上であり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して種々の戦功をあげて内府(徳川秀忠)からの感謝状を得ている。ちなみに、関ヶ原前後における忠隆の松井興長宛自筆状5通が八代市の松井文庫に現存しているが、それを見ると忠隆は自他ともに世子と認められている様子がうかがえる[3]。
しかし、1600年(慶長5年)冬になって妻の千世が大坂玉造屋敷から逃れたことを咎められ、父の忠興から妻を離縁して利家の嫡男・前田利長のもとへ追い払うように命じられた。忠隆は千世との離縁を納得せず千世をかばって前田家を訪ねて助力を求めたりしたが、ガラシャを失った忠興の怒りを買い、新領地の豊前国に赴くことなく勘当される。さらに1604年(慶長9年)には廃嫡されてしまい、忠隆は剃髪して長岡休無と号し、千世と長男の熊千代を伴い京都で蟄居した。なお、熊千代は同年のうちに夭折し、空性院即謳大童子として西園寺菩提寺に葬られている。
忠隆の正室千世は前田利家の娘であったため、前田・細川の姻戚関係を徳川家は好ましく思っていなかった。細川忠興はこの際千世を離縁して前田との関係を絶とうとしたが、忠隆が承知しなかったことが廃嫡の原因であると、現在では解釈されている[4]。
廃嫡後の忠隆の京都での生活は、6000石の固有所領を持ち京都に隠居在住していた祖父細川幽斎が支えた。また幽斎死去後には幽斎所領6000石を整理して、忠隆に細川家からの隠居料として扶持米3000石が支給されることになった。
なお、史料では、1605-1609年に京都で忠隆に生まれた子供の徳(後に左大臣・西園寺実晴室)、吉、福(後に久世家初代・久世通式室)、万(早世)の4子女の母は千世であるとしている[5]。つまり、千世は細川家からは離縁されたが、忠隆とは離縁していなかった。千世はのちに京都を離れて加賀に帰り、前田八家のひとつ村井家の長次に再嫁したが、その時期は1605年(慶長10年)ではなく幽斎死去後の1611年(慶長16年)頃の可能性が高い[6]。
忠興との和解
細川忠興は1626年(寛永3年)京都北野の利休聚楽邸跡にある忠隆邸を訪問して孫にも初対面し、25年ぶりに忠隆の勘当を解いたが、忠隆はその後も京で暮らし続けた。忠隆は公家との交流が深く、和歌書『愚問賢注』や能謠、茶の湯などに親しんだ。京都の忠隆から、弟の藩主細川忠利あての小倉城への手紙なども散見される。なお1632年(寛永9年)肥後の熊本藩に移った忠興は、忠隆を居城の八代城に招いて正式和解し[7]熊本で住むよう申し付けたが、忠隆は固辞して京都に帰ったとされる。
1646年(正保3年)に京都で死去、享年67。法名は泰仰院瑞巌宗祥。忠隆の墓所は京都市北区の大徳寺高桐院と、分骨墓として西園寺家ゆかりの上京区宝樹山竹林院および熊本市島崎3丁目24千原台の瑞巌寺跡地内膳家墓所。 死去にあたり、忠恒と忠春に計2000石分、徳(西園寺家御台所)やそのほかの娘達にも計1000石分の隠居料相続を遺言し、実行された。
子孫
忠隆は、1620年(元和5年)に豊臣浪人長谷川求馬の娘喜久を継室に迎えており、程なく二人の男子(長岡忠恒、長岡忠春)を得た。忠春の子が後に熊本藩一門家臣首座の細川内膳家(長岡内膳とも言う)6000石となる。内膳家紋は細川九曜紋のほかに、裏紋として土岐桔梗紋がある(明智家ガラシャに因む)。
内膳家2代の忠英(ただふさ)は藩校時習館の初代総長となり、その弟は熊本藩家老職を務めている。なお、政治評論家の細川隆元とその甥の細川隆一郎は忠隆の子孫にあたり、細川忠興とガラシャの血を受け継いでいる。
関連項目
歴史小説
小説内容は、史実とは必ずしも一致しない!
- 「千世と与一郎の関ヶ原」佐藤雅美著 講談社2009年1月26日初版
- 「利休七哲(細川三斎:休無・細川忠隆の遺書 左方郁子著)」黒部亨編集 講談社1990年3月
注
- ^ 大坂の陣以前の一時期は細川家は長岡姓を称していた。細川姓は主家のみに許されていたため、廃嫡された後は忠隆は細川姓を名乗らず細川別名である長岡姓で生涯を終えた。子孫は明治維新後に細川姓を称した。
- ^ (下記智恩寺の外部リンク)
- ^ 八代市立博物館史料
- ^ 林千寿「細川忠隆の廃嫡と忠利の後嗣」『関ヶ原合戦と九州の武将たち』八代市立博物館平成十年度特別出版
- ^ 「廃嫡後の細川忠隆」(細川純著・編、熊本県立図書館蔵)
- ^ 「廃嫡後の細川忠隆」(熊本県立図書館蔵)
- ^ 綿考輯録二十五巻((財)永青文庫蔵)、および内膳御家譜地(所蔵:熊本県立図書館および細川隆康)