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[[前漢]]の初年、[[斉郡|斉国]]に属した。[[紀元前164年]]([[文帝 (漢)|文帝]]16年)、白石侯劉雄渠が膠東王となり、膠東国が置かれた<ref>『史記』恵景間侯者年表</ref>。[[紀元前154年]]([[景帝 (漢)|景帝]]3年)、膠東王劉雄渠が[[呉楚七国の乱]]に参加して敗れると、膠東国は膠東郡と改められた。[[紀元前153年]](景帝4年)、[[武帝 (漢)|劉徹]](後の武帝)が膠東王となり、膠東郡は膠東国と改められた<ref>『史記』孝景本紀</ref>。膠東国は[[青州]]に属し、[[即墨県|即墨]]・[[昌邑市|昌武]]・[[昌邑市|下密]]・[[即墨区|壮武]]・[[平度市|郁秩]]・[[萊陽市|挺]]・[[萊陽市|観陽]]・[[萊陽市|鄒盧]]の8県を管轄した。[[王莽]]のとき、郁秩郡と改められた<ref>『[[漢書]]』地理志下</ref>。 |
2021年12月28日 (火) 05:36時点における版
膠東郡(こうとう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から漢代にかけて、現在の山東省青島市一帯に設置された。
概要
紀元前206年、項羽により田巿が膠東王に封じられ、膠東国が置かれた。田巿が田栄に殺害されると、膠東国は消滅した[2]。
前漢の初年、斉国に属した。紀元前164年(文帝16年)、白石侯劉雄渠が膠東王となり、膠東国が置かれた[3]。紀元前154年(景帝3年)、膠東王劉雄渠が呉楚七国の乱に参加して敗れると、膠東国は膠東郡と改められた。紀元前153年(景帝4年)、劉徹(後の武帝)が膠東王となり、膠東郡は膠東国と改められた[4]。膠東国は青州に属し、即墨・昌武・下密・壮武・郁秩・挺・観陽・鄒盧の8県を管轄した。王莽のとき、郁秩郡と改められた[5]。
24年(更始2年)、更始帝が朱鮪を膠東王に封じ、膠東国が置かれた[6]。37年(後漢の建武13年)、膠東国は廃止され、北海郡に編入された[7]。