Wikipedia:秀逸な記事の選考/中国の歴史 20060319
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賛成/条件付賛成/保留/反対 1/0/2/4 この項目の選考期間は、2006年6月19日 17:17 (UTC)(2006年6月20日 02:17 (JST))までです。
(ノート) 《推薦理由》長く続く中国の歴史がこの1記事だけでさらっと読めるほど成熟しており、深い理解を得ることができるため、秀逸な記事へ推薦します。--毛が生えた程度♡2006年3月19日 (日) 17:17 (UTC)
- (保留)現時点では少なくとも「深い理解を得ることができる」とは言いがたいと思います。通史の項ですのでこれくらの分量が適切かとも思われますが、秀逸となるとどうかなと言う気もします。出来ればただ単に通史を書いてあるだけではなく、中国の歴史全体に関わる研究、例えば時代区分についてなどのことが書かれると良いのではと思います。らりた 2006年3月24日 (金) 12:54 (UTC)
- (賛成)項目としては現在の量で多すぎず少なすぎず適量だと思われます。時代ごとの分量配分も良くできています。今までの秀逸が全部「ある一つの具体例」ばかりであったことを考えると、同じ基準を当てはめるのは良いとも言い切れず、この項目のように流れ、概要を語る項目としてはこれでよいのではないか?という提案も含め、賛成とします。これ以上詳しく書きすぎると冗長かつ分割した方が良いものになり、これより少ないと理解させるところが少なすぎる、という項目の性質があるゆえにあまり大きくはいじりたくない所です。Elthy 2006年3月27日 (月) 08:19 (UTC)
- (反対)安易に一部の説に加担するような独断的な説明と、意味不分明な箇所が多いため保留にするよりは一度取り下げたほうがよいのではという意味で反対します。通史的記事であるならば、学説を詳しく論じることは分量的に出来ないと思われますから、憶測的な言及を避け、事実関係のみの記述に専念すべきです。「長江文明は黄河文明が萌芽する遥か前より栄えていた。その後は楚に発展。」(長江文明についてはこれを夏とする見方があるなど、楚に直接つながるものかどうか疑問、呉越との関連も)、「殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。ただし、夏を構成していたとされる都市国家の遺跡は発見されており、その存在の可能性は高い。」(夏→殷の順で書き進めるべき、夏王朝だとされる都市国家の遺跡については、中国側研究者が夏の時代にさかのぼると主張していることで文書などが出土して確認されたのではないはず、夏があるとされる同時代の遺跡だとしても、それが夏王朝が存在したということにはならない)、「商(殷)を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として、土地を与えた。これを封建制という。」(そもそも封建がどのようにおこなわれていたかということについて定説はない。周のもとに封建的に都市国家が統一されていたかどうかも疑問で、楚や燕などは明らかにほかの戦国とは異なった関係にあったと考えられる。これについては秦についてもあてはまる。ゆえに周が土地を与えたというような言い方が出来るか疑問)、「王莽の政治はよくなかったので、各地で反乱が起きた。」(王莽の経済政策の失敗、儒教的政治については触れず、なぜよくなかったのか謎。また赤眉の乱に何故触れないのか謎)、「だが、後漢は豪族の連合政権的なところがあり、政治は安定しなかった。」(初期においては豪族政権的色彩が強いが、この時代はむしろ前漢末期に台頭著しかった豪族を統制して中央集権化の努力をしている。政治が安定しなかったのはむしろ外戚と宦官のせいだと思われる、また党錮の禁に触れられていない)、「この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代という。」(この付近の三国時代の言及が不十分。具体的にはなぜ三国の政権が、前代は統一されていた後漢の領域内で分立し得たのかというような視点が皆無、このあとの南北朝についての言及も概ねこんな感じ)、「早い時点で「上品に寒門なく、下品に勢族なし」との批判があった。結局九品官人法は、隋代まで続き、この間の貴族による政治体制を助けることとなった。」(貴族政治内部の分化や変質、空洞化や歴代南朝による官制改革を通じた貴族統制策に対する言及は皆無)、「宋は文治主義を採用していたたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。」(宋が歴代王朝にもまして過剰な軍事力を維持し続けたこと、軍事力の弱体化が文官統制によるだけとは考えづらい(中国で文官優位は実は珍しくない)、良馬の山地である甘粛地方をおさえられなかったために機動力に欠くものであったことが触れられていない)、「宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。」(宮廷費用を浪費するのはどの王朝も同じこと、モンゴル的な習慣について全く触れられていない、そもそも塩の専売自体は中国史では珍しくないし)、などなど(ここで疲れました)。ともかく一般的な通史としては不十分というよりは言及が不適切あるいは触れるなら詳しく語るべきところを語られていない、など問題点が多いと思われます。細かいところでも推敲すべきであると思われます。東ローマ帝国が秀逸な記事の中で通史的な記述体裁をとっていますが、それと比べると事実関係を述べるだけにとどめるなどの工夫が感じられず、やや全体として精彩を欠いていると思われます。もうしばらく記事が充実するのを待ってから改めて推薦されるほうが望ましいと思います。--Kanbun 2006年3月28日 (火) 14:03 (UTC)
- (コメント)誤解がないように言いますが、私が言っているのは通史的概観の記述にするならば、余計な言及を省いて事実関係の記述のみに絞った方がよいと思います。そのほうがすっきりしてより秀逸になるのではないでしょうか。反対に現在軽く触れられている内容を尊重するならば、今度は大幅につっこんで記述するべきと思われます。--Kanbun 2006年3月28日 (火) 14:14 (UTC)
- (反対)優れた百科事典の文章はどれも簡にして要を得ているけれど、この記事はまだ単に「簡」というだけだと思う。明清において皇帝専制体制が完成をみたことや「中国の半植民地化」では戊戌変法の名前すら言及されていない(大学受験で出題されるのに!)など、漏れが多い。全面改定が必要だろう。この記事はWikibooksの中国史部分を兼ねていることから、さらなる充実が望まれる。--Dokuotou 2006年3月30日 (木) 14:30 (UTC)
- (保留)まだ「秀逸な記事」とするには物足りないものなっています。一旦「おすすめ記事」にしてみてはどうでしょうか。寒波星人 2006年4月17日 (月) 08:29 (UTC)
- (反対)この記事は、分量は長いですが、現状では「秀逸な記事」には当たりません。「元 (王朝)」のような記事と比較すると、その差はかなり大きいと見られます。 あお。 2006年4月20日 (木) 14:35 (UTC)
- (反対): 近現代時期自体の記述が量的にも他時代と比べて少なすぎるのではないか。さらに、その近現代部分内において、チベット、モンゴルに関する記述の量が他の事象についてのものより多いというバランスの悪さが見受けられる。通史であるならば、チベットなどの民族問題よりもたとえば辛亥革命について詳述されるべきであろう。現状では、とくに近現代において、中国の通史というよりも中国の政治的な諸問題の羅列に近く、読者の中国理解に益するものではないようにおもわれる。 sower05 2006年5月19日 (金) 17:46 (UTC) -
- (保留)近現代史の内容が不十分。中国近現代史の関連項目がことごとく編集保護になっている現状を鑑みるに、この部分を充実させたいのだが、それがなかなか難しそうです。--十詩子 2006年6月9日 (金) 11:55 (UTC)
- (選考期間満了)選考期間満了しましたが、今回は秀逸見送りとなりました--汲平 2006年6月20日 (火) 12:56 (UTC)