Wikipedia:井戸端/subj/ユーザー間の記事内容に関する紛争へ門外漢が介入する事
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ユーザー間の記事内容に関する紛争へ門外漢が介入する事。
[編集]ウィキペディアは百科事典サイトです。その内容に関するユーザー間の紛争はその内容に関して詳しい人間が仲裁するべきでしょう。それにもかかわらずja-wpではメンテナンスや削除議論、投稿ブロック議論だけを行ない執筆を行なわない人間がおります。そして、そのような方々の一部にはその実際に関する知識がないため、問題へ関わって逆に紛争を大きくしている例が多々みられます。面白半分や個人的怨みから投稿ブロックや削除を依頼する者すらおり、依頼ページがかならずしも正しいウィキペディアンの世論を反映しているとは思えません。中には投稿ブロック依頼を“刑罰”であると勘違いしている利用者までいる始末です。また特に、執筆者の業績は異常に評価されていない様に見えます。例えば草とりなどは誰にでも可能な仕事ですが、専門知識の必要な各分野や翻訳は誰にでも可能な仕事とは言えません。その様な仕事をおこなう能力があるにも関わらずこころない者達の削除依頼や投稿ブロックの犠牲となりウィキペディアを離れた利用者は既に両手で数え切れない程にのぼります。一部の者達による村八分がウィキペディアのクォリティーに優先するという事実は実に残念です。日本語版は本当にこのままでよいのでしょうか?婆娑羅 2006年3月21日 (火) 12:56 (UTC)
- で、何が仰りたいので? Schwarz (会/歴) 2006年3月21日 (火) 13:40 (UTC)
- 面白半分の削除依頼はこのように却下されます。--hyolee2 2006年3月21日 (火) 13:45 (UTC)
- 門外漢はユーザー間の記事内容に関する紛争へ関与すべきではなく、各種依頼においても意見を参考にすべきではないとも考えております。賛同できませんか?できないなら何故ですか?婆娑羅 2006年3月21日 (火) 14:01 (UTC)
- 横槍ですが、当人たちが感情的になり正常な議論を行えていない、または「記事の話題と関係なく」明らかな不正行為を行っているような場合など、色々な状況が考えられます。一概に意見を参考にすべきでないとは言えないでしょう。あとは、何を持って門外漢だと判断するのかということがあるでしょう。実は普段執筆していないだけで、中の人は学者や関係者かもしれませんよ?--Honeplus 2006年3月21日 (火) 22:29 (UTC)
- 自治関係のページに顔をでしておられる方の中にはそれ以外の投稿記録が例えばアニメや漫画やゲームで占められいて、明らかに若年者である事が伺い知れる様な例が散見しています。ああいった人生経験の不足した方々の意見を成人と同等に数えるというのは問題があるのではないのでしょうか?日本国の普通選挙でも参政権は18歳から与えられますよね。自治系ページの投稿者を見る限り、実は普段執筆していないだけで、中の人は学者や関係者かも知れないというケースは寧ろ少ないと考えられます。もしそうであっても所持している知識は使用しなければ意味を為しません。専門であるかどうかは自己申告でも構いません。その事に関する知識は必要な時に自ずと披露する機会があります。その際にそれが出来なければ専門外であると見て問題なしではないでしょうか?婆娑羅 2006年3月24日 (金) 12:38 (UTC)
- 若年層だから人生経験が不足しているという考えは危険です。年数だけで判断すべきものではないですし、表面的なことで判断すべきことでもないでしょう。こういったことは個々の事例で判断すべきであり、一律に決める性質のものではないと考えます。また参政権を引き合いに出していますが、それはあくまで政治に関する判断であり、wikipediaはもっと幅広い事例があり、若いからこそという事例もあると考えます。もちろん専門家が仲裁できればそれに越したことはありませんが、専門家が中立的に判断できるものでしょうか?--Filler 2006年3月24日 (金) 12:55 (UTC)
- ええ、表面的なことで判断するべきでないというのは紛争の解決も同じです。本当の若年者と若年者だとわかる程幼い投稿をする利用者では指している範囲が異なります。管理者の方にはそれを考えに入れた判断も要求されるのではないのでしょうか?方針文書に「人を批評するな」と言うようなものがあったのを見た記憶があるのですが、それにしても人を見る事が軽視されすぎている感じがしました。婆娑羅 2006年3月24日 (金) 13:39 (UTC)
- 若年層だから人生経験が不足しているという考えは危険です。年数だけで判断すべきものではないですし、表面的なことで判断すべきことでもないでしょう。こういったことは個々の事例で判断すべきであり、一律に決める性質のものではないと考えます。また参政権を引き合いに出していますが、それはあくまで政治に関する判断であり、wikipediaはもっと幅広い事例があり、若いからこそという事例もあると考えます。もちろん専門家が仲裁できればそれに越したことはありませんが、専門家が中立的に判断できるものでしょうか?--Filler 2006年3月24日 (金) 12:55 (UTC)
- >自治関係のページに顔をでしておられる方の中にはそれ以外の投稿記録が例えばアニメや漫画やゲームで占められいて、明らかに若年者である事が伺い知れる様な例が散見しています。
- それが何か問題があるでしょうか?当人の書きたいもの(趣味)と論争に関する知識や見解は一致しません。例え発言の程度が低い、というものであっても、それはその発言に対して反論なり指摘なりをすれば良いことであって、初めから関与すべきでないとは言えないと思います(まぁ、将来Wikipediaの参加者数があまりにも多すぎる、というレベルまで増えたりすれば、ある程度絞り込むことも必要となるのかもしれませんが。)。彼らは各専門の項目においては必要な「有能な人物」でもあるのでしょうし。
- 追伸。これは私見ですが、有能な人物が排除されることを危惧しておられるようですが、論争で自分の主張が受け入れないからと反論できずに消えてしまうような人たちは、そもそもWikipediaに向いている有能な人たちなのでしょうかね?とも思います。--Honeplus 2006年3月24日 (金) 15:03 (UTC)
- Wikiペディアへの執筆には基本的に全てのWikiペディアンが参加できるのですから、Wikiペディア内での議論は全てのWikiペディアに影響しうるという意味でWikiペディア内に「門外漢」というような概念があるとは考えられませんね。また記事執筆者を専門的な職業に限りたいのであれば、それはWikiペディアのポリシーに反すると思われますね。学界の動向とWikiペディアの動向が一致しなければならないということもないでしょう。芸能などになるとなにが専門知識だというものを定義するのもたいへんなことだと思いますよ。専門的な問題においても、一般のWikiペディアンとして関心を持つのは当然だと思いますし、紛争を大きくしていると見られるなら、個別的に対処すべきだと思われます。Wikiペディアに参加している人たちは基本的に善意ある人たちばかりですから、コミュニティーに害悪をもたらすような行為があるならば、その旨しっかり説明して納得してもらうべきでしょう。少なくとも婆娑羅さんのように一般化してコミュニティー全体でこのような問題が起きているとするのはやや事実と異なるのではないでしょうか。--Kanbun 2006年3月22日 (水) 03:00 (UTC)
- 中立性の視点を考えると善意ある人ばかりがウィキペディアンであるという意見には懐疑的にならざるを得ません。記事を執筆する際には多かれ少なかれ知識を要します。その点で知識を持ってウィキペディアへ書き込んだ時点で関係者であるといえます。ですが問題はユーザー間の紛争を解決すると称して、有能な人物までをコミュニティーへ有害だと見做して排除する事で貴重な執筆者資源を失う事を何故見過ごせるでしょうか?第三者が利用者間の紛争へ介入する場合、少なくとも問題となっている記事の事情と予備知識を最低限は学んでおかなければ、その人の判断を公正と見なすのは危険です。婆娑羅 2006年3月24日 (金) 12:38 (UTC)
- 婆娑羅さんは「善意ある人ばかりがウィキペディアンであるという意見には懐疑的」と仰りますが、ウィキペディアに否定的な人がウィキペディアを利用するとは考えられませんし、ウィキペディアンはウィキペディアの有用性を認識しており、記事内容を充実させるために執筆しているという意味で、「基本的に善意」であると考えています。また専門知識において有能である人がウィキペディアの記事投稿で有能であるとは限らないでしょう。ウィキペディアは専門的な研究の場ではなく、利用者があってこその百科事典です。そもそもウィキペディアに「門外漢」なる分類が考えられているのかどうかというようなことと同じく、「有能」であるかどうかが記事執筆に関係するのでしょうか。「無能」だからコミュニティから排除するというのは当然認められませんし、有能な人物であれ言動や行動に問題があってコミュニティに有害であれば排除されるべきでしょう。ウィキペディアは専門的な知識だけを記載するものではありませんし、専門的な意味での正確性を目指したものでもないはずです。「第三者が利用者間の紛争へ介入する場合、少なくとも問題となっている記事の事情と予備知識を最低限は学んでおかなければ、その人の判断を公正と見なすのは危険です」という記述がありますが、第三者とは何でしょう?ウィキペディアにおいては管理者も執筆者、編集者であるはずですし、第三者機関が介入した例があるのでしょうか。もし仲裁を意図して介入した管理者やほかのウィキペディアンを「第三者」とするならば、大きな考え違いといわざるを得ません。ウィキペディアに関わる全ての議論において、その議論が今後の記事執筆に影響するという意味で、すべてのウィキペディアンは間接的に当事者となりえるでしょう。また「記事の事情と予備知識」は特定の議論に参加する際は必要なこともあるでしょう。そのような場合はむしろ当事者がどういう知識があってこの問題を議論しているのかということをむしろ一般のウィキペディアンに理解してもらって議論への参加を促すべきです。「記事の事情と予備知識」がちゃんと認識されていないと感じたら、議論進行が適切ではなかったのではないかということも考えられます。暴言を吐いたり、荒らしのような編集行為をしたり対話を無視した場合は、たとえ記事執筆に有能であってもコミュニティに害悪を及ぼしているのは明白であると思われます。--Kanbun 2006年3月25日 (土) 00:21 (UTC)
- なお、「記事執筆すること」と「議論に参加すること」はそれぞれ別個に考えるべきでしょう。記事執筆と議論参加を一緒くたにするような婆娑羅さんの説明の仕方はやや混乱を招いているように思われます。婆娑羅さんの主張は「議論の場で専門知識のない人が仲裁すべきではない」ということでしょうか。記事執筆について「専門知識がないひとが記事を書き込むべきではない」ということではないですよね?まあ議論の場で「なにがより専門的な知識であるか」というような判断は、記事執筆の場合以上に判別しづらいと思われますが。議論で「専門的な」人同士で決着がつけられないのでしたら、「一般の」ウィキペディアンの視点に戻って議論をしてみるのもいいことだと思いますよ。--Kanbun 2006年3月25日 (土) 00:36 (UTC)
- それと「専門的」であることがウィキペディアの記事執筆に「有能」であるかどうかはそう安易に判断できないのではないですか。どのくらいの知識を持っている人が「専門的」であるかというような判断を下すのが難しいのと同じように、どのような人が記事執筆において「有能」であるかということを判断するのも難しいと思われますよ。なので、議論を一般化せずに、具体的に「どこ」の記事で、「どのような」議論がおこなわれていて、「どのような」仲介のしかたが問題とされているのかを特定すべきだと思われます。いかがでしょうか。--Kanbun 2006年3月25日 (土) 03:18 (UTC)
- 「基本的に善意」なのかどうかはこの際捨て置きましょう。Kanbunさんが善意からその様におっしゃっているのはわかりますから。「議論の場で専門知識のない人が仲裁すべきではない」というよりは専門に限らず「必要な知識を持たずに仲裁にならない介入をする」という事が問題なのです。この際の必要な知識とは基本的なガイドライン・方針文章や議論の背景、他の利用者の意思も然りです。問題ある介入が行なわれている場面を本当にここで具体的に述べても宜しいのですか?婆娑羅 2006年3月30日 (木) 12:12 (UTC)
- 当方のノートにノート:日本の警察における議論が問題視される旨連絡がありましたので、こちらでもそれを踏まえて返答いたします。これが特殊なケースでなくて、ウィキペディア内で一般に頻発しているとするような婆娑羅 さんの根拠がよくわかりません。またこの騒動の原因が「警察の専門知識の欠如である」のではなくて、ウィキペチケットや「ウィキペディア文書の誤読(ウィキペディアンなら誰でも指摘できる)」などによるものと思われますから、門外漢および第三者というような言い方が適切であるかどうかはなはだ疑問です。これが執筆者資源の枯渇になるとか、問題を一般化する理由が見あたりません。必要な知識と専門知識は異なります。またウィキペディアのガイドラインは誰でも読めるもので誰でも指摘できますので、あらかじめ厳密にたたき込んで議論参加することもないでしょう。ウィキペチケットに反するような行為は素直に謝るべきですが、知らなかったりして混乱を招いた場合は指摘してあげて適切に処理すればいいだけではないですか。ともかくどうしてこのノートにあるような議論経過が執筆者資源の枯渇につながるのかさっぱりわかりません。なにかこれに関連して異様な投稿ブロックなどがおこなわれたのですか?--Kanbun 2006年3月30日 (木) 13:02 (UTC)
- そもそも「「基本的に善意」なのかどうかはこの際捨て置きましょう」の意味がわかりません。悪意で議論に介入する人がいて、その人が何らかの投稿ブロックなり記事の削除なりを依頼して管理者によって実行されたということですか?あるいは悪意をもって記事を改竄する人がいて、それが他の人に編集されずまかり通っているということでしょうか?ノート:日本の警察の「どの」部分で「どのような」悪意が看取されるのでしょうか。「中立性の視点を考えると善意ある人ばかりがウィキペディアンであるという意見には懐疑的にならざるを得ません。」という部分ですが、「中立性の視点」と「悪意」がなにか関係あるのですか?--Kanbun 2006年3月30日 (木) 13:49 (UTC)
「内容に関するユーザー間の紛争はその内容に関して詳しい人間が仲裁するべき」とは限らないでしょうね。一見して、内容に関するように見えて、それ以前にWikipediaのルール・ガイドライン・慣習に反していることが問題である場合のほうが多いはずです。一般社会でも、法律にのっとって裁判所が仲裁を行うのと同様です。ルール・ガイドライン・慣習に照らして判断が行われる限りは、仲裁者が内容について専門である必要は全くありません。kaz 2006年3月24日 (金) 15:12 (UTC)
- それはご尤もなお話です。しかしWikipediaのルール・ガイドライン・慣習を知らないまま判断をする利用者が存在する事は残念でなりません。婆娑羅 2006年3月30日 (木) 12:12 (UTC)
- 私もほかのウィキペディアンの善意を疑うような婆娑羅さんの発言は残念でなりません。誤解であればよいのですが。--Kanbun 2006年3月30日 (木) 13:54 (UTC)
善意ってのは時に間違いをしでかすから。提起されてる問題は、善良な市民の間でも起きてて。具体的な例を出すと変な論争になるから、永久機関で例え話ししますね。ある粘着な人が物理の項目に永久機関は実在すると書いたら、削除合戦になるのは、火を見るより明らかだと思いますよね。一応の教養ある人なら、永久機関は実在しないことを理解してるから、ブロック等の措置になると思うんですけど、永久機関ほど一般的な話題じゃない場合、果して、削除を繰り返す人をブロックするべきか、投稿を続ける人をブロックするべきか、判断ついてるのかぁ…と思うんですよ。この場合削除を繰り返す人の態度が悪く、永久機関は実在すると書く人が紳士的な場合。そして永久機関が実在するか否か判断できない人が、管理権を行使したとすれば?管理者が投稿者の物言いで判断したとすれば?永久機関は実在するとウィキに記載されてしまうでしょうね。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 07:03 (UTC)
- 善意による投稿が間違いを犯すことはもっともですが、間違いを犯したからと言って善意によって投稿されたということを疑うということは間違っています。誤りを含むと思われる投稿でも善意によって投稿されたと想定すべきでしょう。「この場合削除を繰り返す人の態度が悪く、永久機関は実在すると書く人が紳士的な場合。」とありますが、だれかが永久機関が実在するという書き込みをしていて、それが明白に誤りである場合、なぜ議論の過程でほかの紳士的な人から適切な指摘がなされないかも疑問です。そもそも「削除を繰り返す人の態度が悪く」て、論点があやふやになり議論の当事者同士でおかしなことになってしまっていたら、ほかの「紳士的な」人が介入することは歓迎すべきでは?そもそも投稿者が「紳士的」だからという理由でウィキペディア内での記事の信憑性があがったり下がったりするなどと言うことは考えられません。「削除を繰り返す人の態度が悪」かったのなら、それはちゃんとした議論進行に支障をきたしているということですから、より紳士的な人に議論をバトンタッチしてもらえばいいのでは?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 08:21 (UTC)
- おそらく「紳士的」なことと門外漢については関係ないと思われます。また「紳士的」な人物がなぜ物理の項目に永久機関を加えることに粘着するのか、それはその人物がなにか別の信念にしたがっているのでは?その場合はそのような信念による投稿が適切でないことを述べて、事実関係を重視するように指摘してはどうでしょう?「紳士的」な人ならきっとわかってくれるのではないですか?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 08:25 (UTC)
- ともかく議論の過程で論点を明確をすれば、たとえば十分な根拠を出して投稿者の記事は事実関係においてやや偏りを含んでいるとか、明白な誤りを含んでいるとか指摘すれば、問題点についてはたとえ問題提起をした人の「態度が悪く」てブロックされてしまっても議論は継承されると思われます。もし議論で明確な論点を出せずに「態度が悪」い人がブロックされたのなら、そのひとは議論について明確な論点を知らない、あるいはそれを十分に提示する能力がないということではないですか?こうしてしまうと問題提起したひとのほうがむしろ門外漢とされてしまうようですが、しかし婆娑羅さんや222.0.75.120さんのいう門外漢はむしろ投稿者のほうをさして問題提起しているように思えます。しかし門外漢ということでは、この「態度が悪」い人と「紳士的」な人も大差ないように思われます。おそらくより十分な根拠を示すことが出来、判断材料を提供することが出来る人が必要とされているのでしょうが、そのひとが見つからないうちは強引な議論進行を避けて、お互いの妥協できる段階で合意を形成すべきでは?また「態度の悪」い人が投稿ブロックされても、この場合あまり議論進行の本筋において大きな影響はないと思われますよ。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 08:45 (UTC)
- Kanbunさんは、門外漢に判断能力が有るのか疑問?という問に対して、紳士的に「大丈夫だと思う」と述べられてますが、大丈夫だと思う根拠と、大丈夫を担保する事については、一切説明が無いわけです。そんな奴は居ないだろう。そうはならないだろう。ちゃんとした人が現われるだろう、だろう、だろう、というのは感想で議論では無いんですがね。
- >>おそらくより十分な根拠を示すことが出来、判断材料を提供することが出来る人が必要とされているのでしょうが、そのひとが見つからないうちは強引な議論進行を避けて、お互いの妥協できる段階で合意を形成すべきでは?
- つまりしつこく頑張ってる間は、「永久機関は存在する」との記載が残っても構わないと?永久機関が存在する派と存在しない派で、どのような妥協が成立しうるのか想像し難いんですが。永久機関非存在派にとっては、どんな妥協でも物理学の否定に近い行為ですからねぇ、ここに門外漢が現われ、足して2で割るような妥協案だされても、非存在派にとっては承服しがたいわけですし。充分な根拠と申されてますが、根拠を提出されても門外漢にその根拠が妥当か判断できるのでしょうか?と言う始めの問いに戻るわけです。感想文に返答するのは疲れます。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 09:14 (UTC)
- 「永久機関非存在派」が十分な根拠を示して「永久機関」の存在を否定できないならば、「存在するだろう」あるいは「存在するかもしれない」ということは否定できないと思いますが?「だろう」論が議論じゃなくて感想だとする根拠がわかりません。また根拠を提出しても、その確実性が「ほかの人が判断できない」ものならば、この場合永久機関の「非存在」を否定できませんよね?222.0.75.120さんが「だろう」文が感想文だとする根拠はなんです?すくなくとも「永久機関非存在派」もこの場合「だろう」論で議論をしているに過ぎないように見えますが。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 09:30 (UTC)
- 具体例を挙げましょう。パウル・カンメラーは「獲得形質の遺伝」らしきものを実験によって提示し、突然変異による進化論が誤っているかもしれないとしましたが、その実験はカンメラー以外おこなっていないあるいは再現に成功していないため、実験そのものを捏造とする見方もあります。またこれが果たして「獲得形質の遺伝」に関係するのかということも明白ではありません。したがって「獲得形質の遺伝」は認められていませんが、しかしカンメラーの実験態度・過程は高く評価されています。カンメラーは決定的な証拠らしきものを示しましたが、他の人には「判断不能」だったのです。ウィキペディアの中でも同じことがいえます。ある記事が誤りであるという問題的があったとして、問題提起者の検証過程は評価でき、またたとえば具体的な文献などによっていたとしても、その文献の信憑性自体をウィキペディア内で評価できない、あるいは判断できない場合はすくなくともその記事について正確性を完全に判断することは不可能では?これが「永久機関」に関するものであった場合は、「永久機関」の非存在派がいくらこのような根拠に従って主張しても、ウィキペディア内では存在を否定することはないと思われますが。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 09:40 (UTC)
- いいかんじですね。永久機関を記載すべきだ派が取りうる戦法です。その手の哲学レベルの議論を始められると、不毛な(物理学にとっては)議論に付き合わない限り、永久機関は存在すると記載されるわけです。ところが、現実問題に立ち帰り、私が今から物理学の項へ出むき、永久機関は存在すると記載しても、これは削除されてしまうわけです。みなさんの教養で充分に判断できるからです。さて困りましたねぇ。。。一般的な教養で判断できる事(百科辞典に頼らなくても良い知識)は正しことが記載されるのに、詳しく知りたい事に関しては、永久機関は存在するレベルの事でもWikiに記載されてしまうんですか?それでも構わないと?百科辞典なのに?百科辞典に対する考えかたが違うのか、百科辞典としての機能より、管理者のコミュニティが大切なのかな?--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:08 (UTC)
- 「永久機関」の例を出したのはあなたですよ。「永久機関は存在するレベルの事でもWikiに記載されてしまうんですか?」といっていますが、私は「永久機関」を記載すべきという根拠を示しているわけではありませんよ。ただ「永久機関」でこのような議論が起こったら、このようになるのでは?と仮定して話しているのであって、しかもその仮定はあなたが持ち出したことです。「百科辞典としての機能より、管理者のコミュニティが大切なのかな?」とありますが、ウィキペディアのコミュニティとは「ウィキペディアンのコミュニティ」では?ウィキペディアンのコミュニティは大切にすべきと思いますよ。だってウィキペディアンのウィキペディアでは?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:26 (UTC)
- いいかんじですね。永久機関を記載すべきだ派が取りうる戦法です。その手の哲学レベルの議論を始められると、不毛な(物理学にとっては)議論に付き合わない限り、永久機関は存在すると記載されるわけです。ところが、現実問題に立ち帰り、私が今から物理学の項へ出むき、永久機関は存在すると記載しても、これは削除されてしまうわけです。みなさんの教養で充分に判断できるからです。さて困りましたねぇ。。。一般的な教養で判断できる事(百科辞典に頼らなくても良い知識)は正しことが記載されるのに、詳しく知りたい事に関しては、永久機関は存在するレベルの事でもWikiに記載されてしまうんですか?それでも構わないと?百科辞典なのに?百科辞典に対する考えかたが違うのか、百科辞典としての機能より、管理者のコミュニティが大切なのかな?--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:08 (UTC)
- 私自身は仮に「永久機関」なるものが存在するかもしれないと判断できるような材料を示せるならば、ウィキペディアに記事として記載してかまわないと思いますよ。たとえ一般常識としてどんなに否定的に考えられていたとしても。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 09:47 (UTC)
- 「永久機関」について仮にこのような論争があったら、「永久機関は~などの根拠によって存在しうるとする見方もあるが、物理学的見地からは到底支持できないとされている」という記述で妥協してはどうです?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 09:52 (UTC)
- 私が言っているのはこのような論争で「永久機関存在派」の主張を「永久機関非存在派」が思いこみに過ぎないと考えていても、その根拠を十分理解させて「永久機関存在派」の主張が思いこみであると納得してもらえない限り、「永久機関非存在派」も思いこみをしているかもしれないという可能性は皆無ではないということです。したがってウィキペディア内でも「永久機関存在派」の主張を事実でないものとして扱うことは出来ないのでは?(もちろん非常に疑わしいとは指摘できますよ)--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:03 (UTC)
- つまりこのような議論で「相手の理解能力に問題がある」と判断することは、「相手の理解能力の欠如」を証明しなければいけませんが、それを証明できない場合は、すくなくとも自分と同程度の合理性--この場合信条に基づいた恣意的な合理性も含まれますが、それが恣意的であるかどうかは明らかにできていません、相手の信条を分析することで問題点を指摘することは出来るでしょうが--をもっているとする以外なく、したがってどちらの意見がより合理的であるかは判断できないのでは?一般的事実からの信憑性から「非存在派」に有利に議論が進められると思われますが、しかしおそらく記事で「存在しない」と明確に言及することは避けられるでしょう。これが「感想」に基づく解決なのでしょうか?「非存在派」が物理学的根拠を盾にして「永久機関」を根も葉もないとするほうがよっぽど「感情」的では?まあこの議論はもちろん仮定の話ですよ。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:15 (UTC)
- 門外漢に非常に疑わしいと判断できるなら、世の詐欺師はいなくなりますね。よかったよかった。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:10 (UTC)
- あなたのいう門外漢の理解なくしては議論はおぼつかないでしょう。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:16 (UTC)
- 議論すれば正義、正しい、は、幼い正義、間違える善意だよ。必要なのは「正しい議論」じゃないのかな?難しいことだけど--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:22 (UTC)
- あなたのいう「正しい議論」がコミュニティの合意形成を意図したものでないならば、少なくともウィキペディア内では「正しい議論」であるとは言えないと思われます。ときには自説を曲げてでも合意形成を優先すべきではないですか?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:30 (UTC)
- 議論すれば正義、正しい、は、幼い正義、間違える善意だよ。必要なのは「正しい議論」じゃないのかな?難しいことだけど--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:22 (UTC)
- 自説を曲げるのと、事実を歪めるのは、違うと思うよ。Wikiの言う合意形成(西欧はディペート教育があるから、議論とは?なんて事書いて無いけど)には、正しい議論の前提があると思うのね。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:42 (UTC)
- 正しい議論の前提とは科学的な観点のことですか?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:50 (UTC)
- 違いますよ。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 11:15 (UTC)
- 違うとすればなんなのでしょう?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 11:29 (UTC)
- さて、なんでしょうか?難しい話しですね。一度考えてみられた方が、長い人生損にはならないと思いますよ--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 11:52 (UTC)
- 横から失礼致します。妥協案としては Wikipedia:中立的な観点 に従い「~という××もある」などの記述を行う、といった方法もあります(Wikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのか)、といいますかそうするべきです。また、議論がうまく進行しない場合には Wikipedia:論争の解決 を提示するだけでは不十分でしょうか。これらのガイドラインがうまく機能していないのではないか、という問題提起にも取れるのですが。または十分な合意が得られないまま議論が途絶してしまうことを危惧しておられるのではないかと愚考いたします。 Calvero 2006年4月1日 (土) 10:19 (UTC) 上に書いてありました。失礼しました。 Calvero 2006年4月1日 (土) 10:23 (UTC)
- ちょっと違う、永久機関を例示したからそう思うんでしょうが、似非科学なら、科学を知ってる人には、似非科学として扱えるけども。似非の判定が出来ない人が管理権を行使した時の問題ね。似非科学論者が自身の説を似非と把握してるのなら、楽なんだけど、似非科学論者は自身の見解を似非とは認識してないから。そしてどちらが似非か認識できない人が似非の方を残し保護してしまったり、管理権を行使したり、妥協への議論へ参加しはじめる問題。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:36 (UTC)
- それはその記事が「似非科学」であると十分証明できなかっただけでは?管理者の理解能力のせいにする根拠は何です?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:41 (UTC)
- また似非科学は疑似科学とは違うんだろうと思いますが、Wikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのかという項目についてはどう思われます?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:43 (UTC)
- だから、言ってるように、不毛な議論にまきこまれてる時に、管理者に理解力ないと、不毛な議論であるのかすら判断つかないっていうの。詐欺師のほうが馬鹿だますのは上手いんだから。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 10:46 (UTC)
- 管理者に理解力がないといいますが、その根拠がわからないと言ってるんです。管理者以上に議論をしている人が理解力があるとする根拠は何です?それが証明されないならば、裁定が間違っていたとは言えないのでは?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:49 (UTC)
- つまり私が言っているのは、管理者の裁定がたとえば感情的なものであったから間違っていた場合は、感情的であったということを示すべき(感情的に不公平な裁定であれば公平とは言えませんよね)で、理解力や専門知識がないせいにするのは論証不可能では?と言っているのです。したがって理解力や専門知識の欠如を理由に議論から排除するのは無理では?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 10:57 (UTC)
- なるほど、説明責任は権限を行使したものが行なうべきだと、おいらは考えてたんだけど、権限行使は特権で、間違いを証明しない限り、権威に逆らうなってことか。婆娑羅さんの少し感情的な物言いが理解できた。権威主義者に対抗するのは不毛かもだなぁ。。権限には責任がともなう。と言う前提をくつがえされたら、権限もってる人相手に議論しても無意味ですね--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 11:11 (UTC)
- 議論内容について説明責任があるのは問題提起者だと思いますよ。調停者は調停に対して説明責任を負うだけだと思われます。相手が権威をかさに何か不当な主張をしているならば、コミュニティでその問題を取り上げて、不当だと思われる箇所を明確にした上で議論するのが適切だと思われます。調停者が議論内容について熟知していなければいけないということはないでしょう。議論内容とは無関係に、編集合戦や対話拒否のような行動が見られるならば、調停は積極的におこなわれるべきでしょう。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 11:17 (UTC)
- 調停はおこなわれてないから、保護、アクセス禁止、合意しろ、編集合戦がおこなわれてる時にこの3点以外読んだことない。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 11:20 (UTC)
- 管理者の裁定に不服なようですが、ともかくそれと「専門知識」とは何の関係もないですし、門外漢が議論に参加するなとかいう主張とは無関係ですよね?管理者の行動で問題があるならば、具体的に問題点を明らかにした上で別の箇所で具体的に検討すべきでしょう。すくなくとも門外漢が議論に介入云々とはまったく関係なさそうです。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 11:28 (UTC)
- なお保護、ブロック措置、合意形成を促すことが調停ではないというような意見を言っているように思われますが、それらは現在のウィキペディアでは調停手段として用いられているのではないでしょうか。とはいえこの問題はここでは全く関係ないですね。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 11:34 (UTC)
- 現状追認してるだけで、なんら説明してない事に気付いてらっしゃらない。だから関係ないと思われるんでしょう。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 11:43 (UTC)
- ふむ。ということは222.0.75.120さんは管理者が調停する際に「専門知識」の有無というのが決定的になるということをこの議論のどこかで説明できたと考えているわけですか?だとしたら、どこです?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 11:50 (UTC)
- 専門知識の有無より貴兄は、判断の幅が少し狭い感じがします。それともちょっと先ばしり?反論できるポイントを探されてるのかも?--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 11:57 (UTC)
とりあえずインテンドを戻してください。チャット的な議論も止めてください。らりた 2006年4月1日 (土) 11:56 (UTC)
- 「そうすべき理由を説明いただき、理由に合意できれば、何時でも従います。」てな人と合意形成に至れという現在の管理体制はどうなんでしょうねー--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 12:03 (UTC)
- ふむ。いまいち「専門知識」の有無が議論の介入にそんなに決定的に必要なのか理解できませんが、222.0.75.120さんはおそらく私の理解力がないせいだとでも言いたいのでしょう。いまのところガイドラインに影響することも無さそうですし、もっと議論が核心に迫ってから参加しようと思います。できれば「専門知識」の定義などについて明確化されるとよろしいかと思います。とりあえず議論を静観しようと思います。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 12:11 (UTC)
- また先走るうぅ。。。そんなこと言ってないよ。判断の幅が狭いと言ってる。実は専門知識は必ずしも必要なくて、高度な判断力が必要だと思うんだけどね。ここが婆娑羅さんと少し意見を異にするところ。でも婆娑羅さんの問題提起と同根だと思う。高度な判断力を管理者に求めるのは、酷だとは思うけど、少なくとも管理者には責任感が欲しいとは思う。本当にそこで保護するべきなのか、そのIPをはじくべきなのか、合意形成の見極めをしてるのか?等ね。Kanbunさんには何言ってるか伝わり難いと思うけど。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 12:25 (UTC)
- ふむふむ。なるほど。私も別に現在の管理者を擁護しようというのではなくて、門外漢というような言い方が適切かどうか気になっただけです。たしかに婆娑羅さんや222.0.75.120さんが現状に対して何か危機意識をもっているのなら、私も是非聞きたいです。先走っていたところがあったのなら、失礼いたしました。「本当にそこで保護するべきなのか、そのIPをはじくべきなのか、合意形成の見極めをしてるのか?」というようなことは確かにいろいろ考え方があるものと思われます。もし何か不当だと思われるような裁定があるならば、それは十分吟味すべきですね。下でらりたさんも言っていますが、私も個別対処すべきと考えています、現状では。とにかくいい議論に発展すればと思います。私は期待しつつ静観することにします。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 12:30 (UTC)
- あまり今までの議論を理解していないので、恐縮なのですが。
- ぶっちゃけた話、そのようなことは記事ごとに個別判断すべきことではないのですか?定型を作ろうとしても無理だと思うのですが。らりた 2006年4月1日 (土) 12:27 (UTC)
- 記事毎の判断で良いんでしょうけどね。というか、Wiki管理者の心構えの問題かな?どんな百科辞典を作るのか?というね。現状の管理者って、コンピューターオペレーター感覚な感じで、保護依頼が有ったから保護かけて、解除依頼が有ったから解除して、門外漢が判断して良いのかって(いうか判断してないんだけど、判断せずに保護をかける行為が百科辞典の編集になってしまってる)話はあるわけで、ある専門分野になると言葉自体その世界の言葉だったりするし。それを日常感覚で行くべきか、その専門性を受け入れるかっていう問題が出るし。専門家から見たら受け入れ難い説明でも、一般の人なら妥当と判断する時に、管理者が一般感覚で妥当としたら、その結果その分野の整合性がおかしくなったりするしね。逆に専門家の集団がスキャンダルを矮小化しようとしてたり(具体例だすと議論が明後日の方向いくから止めとくけど)、婆娑羅さんはどんな分野で活躍されてるのか判らないけど、問題提起する理由は凄くわかる。その方向の議論にはなかなならないねぇ。。。。現状でリソースの限界が有るとは思うけど、現状を正当化するのは違うかな?と--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 13:02 (UTC)
- また先走るうぅ。。。そんなこと言ってないよ。判断の幅が狭いと言ってる。実は専門知識は必ずしも必要なくて、高度な判断力が必要だと思うんだけどね。ここが婆娑羅さんと少し意見を異にするところ。でも婆娑羅さんの問題提起と同根だと思う。高度な判断力を管理者に求めるのは、酷だとは思うけど、少なくとも管理者には責任感が欲しいとは思う。本当にそこで保護するべきなのか、そのIPをはじくべきなのか、合意形成の見極めをしてるのか?等ね。Kanbunさんには何言ってるか伝わり難いと思うけど。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 12:25 (UTC)
- ふむ。いまいち「専門知識」の有無が議論の介入にそんなに決定的に必要なのか理解できませんが、222.0.75.120さんはおそらく私の理解力がないせいだとでも言いたいのでしょう。いまのところガイドラインに影響することも無さそうですし、もっと議論が核心に迫ってから参加しようと思います。できれば「専門知識」の定義などについて明確化されるとよろしいかと思います。とりあえず議論を静観しようと思います。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 12:11 (UTC)
(インデント戻します)で、これは何の論議をしてるんですか?どこか根底から違ってる気がするのですが。 Schwarz (会/歴) 2006年4月1日 (土) 12:39 (UTC)
- 私は「専門知識」の有無が議論を調停する際に決定的なのかどうかという議論だと思っていたのですが、違うのでしょうかね?--Kanbun 2006年4月1日 (土) 12:48 (UTC)
- 婆娑羅さんは、門外漢と表現されてるけど、だからと言って門外漢と語義にしばられてしまうと、色んな事が見えなくなりますね。頓珍漢とまでは言わなかったのは、紳士的な態度を心がけられたのでしょう。--222.0.75.120 2006年4月1日 (土) 13:02 (UTC)