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内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
VMRO DPMNEから転送)
北マケドニア共和国の旗 北マケドニア政党
内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党
Внатрешно Македонска Револуционерна Организација - Демократска Партија за Македонско Национално Единство
党首 フリスティヤン・ミツコスキ
成立年月日 1893年(内部マケドニア革命組織)
1990年6月17日(VMRO-DPMNE)
本部所在地 北マケドニア共和国の旗 スコピエ
議会議席数
55 / 120   (46%)
政治的思想・立場 中道右派 - 右翼
保守主義
キリスト教民主主義
経済的自由主義
右翼ポピュリズム
民族主義
国際組織 欧州人民党(オブザーバー)
公式サイト VMRO-DPMNE
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内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(ないぶマケドニアかくめいそしき・マケドニアこっかとういつみんしゅとう)は、北マケドニア共和国政党である。略語はVMRO-DPMNE。

党名

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  • マケドニア語ではВнатрешно Македонска Револуционерна Организација - Демократска Партија за Македонско Национално Единствоで、略称ВМРО-ДПМНЕである。
  • 英語ではInternal Macedonian Revolutionary Organization-Democratic Party for Macedonian National Unityで、略称VMRO-DPMNEである。
  • 日本語では国家統一民主党と略記されることが多い。

政策

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キリスト教民主主義を掲げる中道右派政党。マケドニアの欧州連合加盟を支持している。

党史

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内部マケドニア革命組織とは元々、1893年マケドニア人の解放戦線として結成された組織であり、1930年代を中心に、ユーゴスラビア政府により抑圧された過去を持つ。現在の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党は、この内部マケドニア革命組織を引き継いだものであると公言しているが、実際には接点は無い。

ユーゴスラビアの共産主義化が進むと、マケドニアはユーゴ連邦構成国の1つとして、ユーゴスラビア共産主義者同盟の支部の1つであるマケドニア共産主義者同盟英語版の統治下に入った。だがユーゴの最貧地域としてセルビア人クロアチア人スロベニア人などから「格下」として扱われたことが、徐々にではあるがマケドニア人の不満を募らせていった。1980年5月にユーゴスラビア大統領のヨシップ・ブロズ・ティトーが死去すると、他の構成国と同様、マケドニアでもユーゴ崩壊への準備と民主化への道程が見え始める。海外に亡命していたマケドニア人指導者が次々と帰国し、若き知識人たちはマケドニア人のナショナリズムを煽った。こうした状況下で、かつてマケドニア人の解放運動を率いた内部マケドニア革命組織という名称を冠した政党が誕生するのは、無理からぬ事だったと言える。そして1990年6月17日スコピエにおいて、内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党が公式に誕生したのである。

初の複数政党制に基づく1990年の第1回総選挙によって、議会の最大勢力となったものの、多数派を構成できなかったことや、アルバニア人政党との連立を組まなかったことで、政権与党とはなれなかった。また、1994年に実施された第2回総選挙の第1次投票で不正があったとする内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党は、第2次投票をボイコットした。

民族主義的な色彩を帯びたままでは国際的な支持を得られないと判断した党指導部は、1995年に行なわれたキチェボ地区選挙で初めてキリスト教民主主義を党是に導入。1998年の第3回総選挙ではアルバニア人政党の中で最大のアルバニア人民主党と連立を組み、内外の多くの人々を驚かせた。この選挙によりリュブチョ・ゲオルギエフスキ英語版が首相に就任。そして1999年には大統領選でボリス・トライコフスキが当選し、国家元首行政府を内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党が押さえる状況が完成した。特に穏健改革派のトライコフスキの就任により、党の更なる穏健化への期待が高まった。

だがマケドニア自由党と同盟を組んで闘った2002年の第4回総選挙では、120議席中28議席しか獲得できず、行政府は中道左派マケドニア社会民主同盟が率いることとなった。また2004年2月、トライコフスキ大統領の搭乗する政府専用機が墜落し、同大統領が死亡。これを受けた大統領選ではマケドニア社会民主同盟のブランコ・ツルヴェンコフスキが当選。形成は一気に逆転した。

2006年の第5回総選挙では再度、少数民族政党と同盟を組み、その結果、120議席中45議席を獲得。内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党のニコラ・グルエフスキが首相に就任し、再び行政府を率いることとなった。

2007年5月15日欧州議会における保守政党欧州人民党へのオブザーバー参加が認められた。

外部リンク

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公式ウェブサイト(マケドニア語)