竜済光
竜済光 | |
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プロフィール | |
出生: | 1867年(清同治6年)[1] |
死去: |
1925年(民国14年)3月12日[2] 中華民国北京市 |
出身地: | 清雲南省臨安府蒙自県 逢春嶺納更土司(現在は元陽県に属する) |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 龍濟光 |
簡体字: | 龙济光 |
拼音: | Lóng Jìguāng |
ラテン字: | Lung Chi-kuang |
和名表記: | りゅう さいこう |
発音転記: | ロン ジーグワン |
竜 済光(りゅう さいこう)は、清末民初の軍人。民国初期に広東省を支配した軍人政治家(軍閥指導者)。北京政府・袁世凱を支持した。字は子誠(または、紫丞、子澄)。ハニ族(哈尼族)[3]。
事跡
[編集]清末から辛亥革命まで
[編集]雲南省蒙自県のハニ族土司(逢春嶺・納更土司)の家庭に生まれる。成年になると、土司の家柄により、昆明で官位に就いた。光緒14年(1889年)、故郷に戻り、団練を組織している。
1904年(光緒30年)1月、広西省で発生した会党の大規模な蜂起が発生する。これを鎮圧するため、竜済光は両広総督岑春煊の動員に応じて広西入りした。竜は陸栄廷とともに会党鎮圧に貢献し、その軍功により、1905年(光緒31年)6月に署理広西右江道に任命された。
1907年(光緒33年)12月、孫文が鎮南関蜂起を起こすと、竜済光と陸栄廷はこれを鎮圧する。その軍功で、竜は署理広西提督に就任した。1911年(宣統3年)4月、竜は革命派鎮圧のため広東省へ異動する。
同年11月、広東で革命派が武昌起義に呼応して独立を図る。革命派は竜済光を副都督として取り込もうとしたが、竜は省独立を拒否した。しかし結局、胡漢民・陳炯明らが広東での蜂起に成功している。
中華民国成立とともに、竜済光はいったん綏靖処副経略に任命された。1913年(民国2年)、陳炯明らが第二革命(二次革命)を発動する。竜は袁世凱から広東鎮撫使に任命され、陳を駆逐して広東省の統治権を掌握した。同年8月、広東都督兼署民政長に正式に任命されている。1914年(民国3年)6月、振武上将軍督理広東軍務に任命された。
護国戦争での敗北
[編集]1915年(民国4年)、竜済光は袁世凱の皇帝即位を支持した。同年12月25日に勃発した護国戦争では、竜は積極的に護国軍討伐に動いた。翌民国5年1月28日には、袁世凱から「郡王」に封じられている。
しかし、3月15日に広西省の陸栄廷が独立を宣言し、さらにその1週間後の22日に袁世凱が皇帝即位の取消しを宣言する。これにより、竜済光は南方で孤立していくことになった。そして、護国軍の李烈鈞や陸栄廷の脅威に屈する形で、4月6日、竜もついに広東独立を宣言した。
6月6日に袁世凱が病死すると、その3日後に竜済光は独立を取り消して北京政府への忠誠を宣言した。しかし李烈鈞・陸栄廷の攻勢は続く。そして同年10月、陸栄廷軍が広州入りし、竜は海南島へ逃亡した。
1917年(民国6年)11月、竜済光は北京政府から両広巡閲使に任命される。竜は孫文の護法運動に反対し、広州の陸栄廷を攻撃した。しかし1918年(民国7年)3月、李烈鈞の討伐を受け、同年5月には竜済光は広東から駆逐される。そして北京へ逃げ込んだ。
その後、安徽派・段祺瑞の庇護を受ける形で、竜済光は天津で振武軍と呼ばれる軍を組織した。しかしこの軍も、1920年(民国9年)7月の安直戦争で壊滅してしまう。これにより、竜済光は政治的・軍事的影響力を完全に喪失した。
1925年(民国14年)3月12日、北京で死去。享年59。
人物
[編集]1916年、領事官補として広州在勤の石射猪太郎の記述によると、竜の印象について「いわゆる南蛮の一種たる玀々族出身とかで、怪異な相貌、就き刺す様な眼光、野趣横溢した五十がらみの巨漢であった。」[4]
注
[編集]参考文献
[編集]- 李期博主編『紅河哈尼族彝族自治州哈尼族辞典』雲南民族出版社、2006年。ISBN 7-5367-3368-2。
- 孫代興「竜済光」謝本書主編『西南十軍閥』上海人民出版社、1993年。ISBN 7-208-01642-9。
- 「哈尼族出身的軍閥竜済光」中国紅河網(中国共産党紅河州委宣伝部ホームページ)
- 呉顕明「竜済光」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第7巻』中華書局、1993年。ISBN 7-101-01052-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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