斎藤卯八
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斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉永5年12月8日[1])- 1912年(明治45年)2月9日[1][2][3])は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]甲斐国巨摩郡上今諏訪村[1](山梨県[2]中巨摩郡今諏訪村[3][4]、白根町[1]を経て現南アルプス市上今諏訪)で、名主の家に生まれる[5]。巨摩郡西野村の宮浦東谷から普通学を学び[4]、徽典館で漢学を修め[4]、さらに甲府育英舎で学んだ[2][3][4]。農業を営む[4]。
1873年(明治6年)10月、上今諏訪村副戸長に就任[4]。以後、同戸長、巨摩郡第13区戸長、今諏訪村会議員、中巨摩郡豊村外三ケ村連合村会議員、同郡御影村外三十八ケ村組合村会議員、同郡在家塚村外二ケ村連合村会議員などを務めた[1][2][3][4]。1890年(明治23年)末、立憲自由党に入党した[1]。1892年(明治25年[注釈 1])山梨県会議員に選出され、同副議長、同県県有財産常設委員なども務めた[1][2][3][4]。
1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙で山梨県第1区から自由党所属で出馬して初当選し[1][4][6]、1898年(明治31年)8月の第6回総選挙(山梨県第1区、憲政党)でも再選され[1][4][7]、立憲政友会に所属し衆議院議員に通算2期在任した[2][3]。この間、予算委員などを務めた[4]。
1899年(明治32年)釜無川架橋を提唱し、私財を投じて開国橋の完成などに尽力した[5]。
国政選挙歴
[編集]- 第3回衆議院議員総選挙(山梨県第1区、1894年3月、自由党)当選[6]
- 第5回衆議院議員総選挙(山梨県第1区、1898年3月、自由党)次点落選[7]
- 第6回衆議院議員総選挙(山梨県第1区、1898年8月、憲政党)当選[7]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『衆議院議員列伝』483頁では明治24年9月。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。