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黒色青年連盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒旗事件から転送)

黒色青年連盟(黒色青年聯盟、こくしょくせいねんれんめい)[1]は、1925年12月に東京で結成されたアナキスト組織である。

1926年11月には日本統治下の台湾にも台湾黒色青年連盟中国語版という支部が作られた。

事件

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黒旗事件

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銀座事件とも呼ばれる。

1926年1月31日午後6時半、黒色青年連盟は東京芝公園内の協調会館で第一回演説会を開催する[2]。黒色青年連盟の機関誌『黒色青年』による自己発表に依れば、東京地方の無政府主義団体の最初の会合であり、参加者は700人余りであった[2]。弁士の中には紙製の爆弾を壇上に叩きつけたり、警備の私服警官との論争の末に検束された者もいる[2]

午後9時には演説会は散会となったが[2]、参加者の中の30名ほど[3]は黒旗を掲げ革命歌を高唱しながら銀座へと向かった[3]。一行は、資生堂の前に差し掛かった際、こん棒や団旗の先でショーウィンドウのガラスを粉砕したのを皮切りに[4]を投げ20軒あまりの商店の窓ガラスを割る[2]といった暴行を行い、これを制止しようとした尾張町交番の巡査に全治二週間の殴打傷を加えている[2][3]

警視庁は事件後に無政府主義者を次々と約50人を検挙[5]。うち22人は騒擾罪で起訴された[6]

内閣総理大臣を務めていた若槻禮次郎は、協調会館の演説会は事故もなく解散したこともあって、警視庁側に手落は無いとし警視庁側の処分は一切行わなかった[3]。また、普通犯罪と同一でないことと、無政府主義取締を声明した[3]

壺井繁治襲撃

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1927年12月、萩原恭次郎らが創刊したアナキスト系雑誌『文芸解放』11号に「我等は如何に彼等と対立するか」を掲載し、アナキズムからマルキシズムへの転回を示した壺井繁治が黒色青年連盟員に襲撃され重傷を負う[7]

機関誌

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機関誌として『黒色青年』を1926年4月5日から1931年2月10日まで24号発行していた[1]

『黒色青年』は、1975年黒色戦線社から復刻版が出版されている[1]

関連人物

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脚注・出典

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  1. ^ a b c 書誌情報:黒色青年 : 黒色青年連盟機関紙”. 国立国会図書館. 2016年11月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 『黒色青年』の記述に依る。
  3. ^ a b c d e “銀座街頭の暴行と革命歌高唱”. 東京朝日新聞夕刊. (1926年2月3日) 
  4. ^ 講演会解散命令に憤慨し銀座で大暴れ『東京朝日新聞』大正15年2月1日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p193 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 無政府主義者ら次々と検挙される『東京朝日新聞』大正15年2月2日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p194)
  6. ^ 二十二人が起訴される『時事新報』大正15年2月16日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p194)
  7. ^ 梅田俊英. “書評と紹介 秋山 清著『秋山清著作集』全12巻” (ODF). 大原社会問題研究所. 2016年11月30日閲覧。

外部リンク

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