鷗友学園女子中学校・高等学校
鷗友学園女子中学校・高等学校 | |
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城山通りに面している正門(2009年11月) | |
北緯35度38分50.1秒 東経139度38分26.8秒 / 北緯35.647250度 東経139.640778度座標: 北緯35度38分50.1秒 東経139度38分26.8秒 / 北緯35.647250度 東経139.640778度 | |
過去の名称 | 鷗友学園高等女学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人鷗友学園 |
校訓 | 慈愛と誠実と創造 |
設立年月日 | 1935年(昭和10年) |
創立記念日 | 5月27日 |
共学・別学 | 女子校 |
中高一貫教育 | 完全一貫制 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード |
C113311200034 中学校) D113311200032 (高等学校) | (
高校コード | 13634E |
所在地 | 〒156-8551 |
外部リンク | 鷗友学園女子中学高等学校 |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
鷗友学園女子中学校・高等学校(おうゆうがくえんじょしちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都世田谷区宮坂一丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立女子中学校・高等学校。
概要
[編集]東京府立第一高等女学校(現:東京都立白鷗高等学校・附属中学校の前身校)同窓会である鷗友会によって1935年(昭和10年)に創立された。初代校長は東京府立第一高等女学校中興の祖である市川源三である。その市川と共に学園の基礎を築いたのが、市川の愛弟子であった石川志づ(第二代校長・理事長)である。
校訓である「慈愛(あい)と誠実(まこと)と創造」を基にした教育を行っている。
授業の特徴として、聖書・園芸(敷地内に実習畑を有する)・ダンス(リトミック)が挙げられる。
各学年は学年色を有し(現在は黄 白 赤 ピンク(桃) 緑 青の6色)、様々な場面で使われている。1996年度中学入学生までは紺ジャージの側章が学年色のラインであった。その後の改訂を経て、現在もジャージの名前刺繍部分が学年色である。
運動会は学年対抗で行われるため、各々の学年色への愛着が深まる良い機会となっており、年間を通して最も盛り上がる行事である。特にトリを飾る「むかでリレー」は圧巻である。姉妹学年(ピンク(桃)-黄、赤-青、白-緑)ごとに伝統の「鷗友音頭」を踊る。
歴史
[編集]- 年表
1935年 | 財団法人鷗友学園(東京府立第一高等女学校同窓会(鷗友会)により設立) |
財団法人世田谷高等女学校および技芸女学校を引き継ぐ | |
「世田谷高等女学校」から「鷗友学園高等女学校」へ校名変更認可。この日(5月27日)を創立記念日とする | |
1938年 | 「世田谷技芸女学校」から「鷗友学園技芸女学校」へ校名変更 |
1939年 | 「鷗友学園技芸女学校」を廃校 |
1947年 | 学制改革により「鷗友学園女子中学校」を開設(設置認可1947年3月31日) |
1948年 | 学制改革により「鷗友学園女子高等学校」を開設(設置認可1948年3月10日) |
1951年 | 私立学校法施行により、学校法人鷗友学園となる |
1955年 | 専攻科設置 |
1963年 | 軽井沢に「追分山荘」開設 |
1983年 | 石川記念館完成 |
1984年 | 2号館完成 |
1985年 | 3号館完成 |
1986年 | 図書館棟完成 |
1988年 | 4号館完成 |
1990年 | 専攻科募集を停止[要出典] |
1991年 | 体育館完成 |
1995年 | 高校募集を停止、完全な一貫校となる[要出典] |
1996年 | 本館完成 |
2005年 | 専攻科廃止 |
班・同好会
[編集]鷗友学園では、クラブ活動を班活動と呼ぶ。班には運動班と学芸班がある。進学校なりに部活動は盛んである。
同好会
[編集]一部の班、同好会には中学一年生の時に同じ班、同好会の先輩に制服の「リボン」をその先輩が卒業する際に譲り受ける風習がある。
活動
[編集]- 「プロフェッサー・ビジット (PROFESSOR VISIT)」
「プロフェッサー・ビジット」とは、国立大学13校の教員が全国各地の高校を訪れ、最先端の研究成果や、大学での学びの楽しさを伝える企画である。千葉大学大学院理学研究員の石原安野准教授による、タイトル「ニュートリノで見る深宇宙」についての出張講義が2018年12月14日に開催された[2]。
制服
[編集]- ※チェックの替スカートやニットベスト、セーター、オーバーブラウスのオプションあり。
- ※※制服は長らく紺のボレロとジャンパースカートであったが、1987年度から夏服がグレンチェックのベスト・スカートへ、さらに1996年度中学入学生(高校54回生、2001年度卒業)をもって冬服も廃止され、現在のグレーのブレザーに変わった。また2006年度中学入学生からは、制服生地を供給していたカネボウが繊維部門から撤退したためメーカーが変更となり、布地がやや薄手のものになった。さらにセーターの編地が大幅に変更(メリヤス編みから全体がなわ編みへ)され、リボンはブラウスに直接付けるスタイルとなった。これらの改変については、カネボウの撤退が急であったため生徒にアンケートを採るなどの過程を経ないまま行われた。
専攻科
[編集]同校の専攻科は高校卒業後に教養を深めたい生徒のために設けられた教育機関である。短期大学に相当するが、本専攻科は短期大学の認可は受けていないため、短期大学卒業扱いにはならない。専攻科は1943年(昭和18年)に設立され、一旦戦況の悪化により途絶えたが1955年(昭和30年)に学園創立20周年記念事業として、石川志づ校長により新たに設立された。以降800人以上の卒業生を世に輩出したが、時代の流れとともにその役割を終え、1997年に42年間の歴史に幕を下ろした。(正式閉校は2005年3月)
専攻科はスイス等で良家の女子のために設けられるFinishing School(花嫁学校)のようなもので、『一流の教師により一流の教養を身に付けさせねばならない』という理念の基に終始錚々たる講師陣を揃え、さらに技能を伸ばしたい学生は研究科生として学び続けられる時代が続いた。戦前からあった女子専門学校が次々と女子短期大学になる中、短期大学への変更を検討した時期もあったが、敷地や法的規制上の問題から困難であり、無理に短期大学にするよりは自由な構想で内容をさらに充実させたいという結論に至って、以後独自の路線を歩み続けた。
交通
[編集]著名な出身者
[編集]女優
[編集]歌手
[編集]アナウンサー
[編集]文化
[編集]その他
[編集]脚注および参照
[編集]- ^ 鷗友学園女子中学校の学校情報 - 中学受験パスナビ(旺文社)
- ^ 「2018年度プロフェッサー・ビジット」」朝日新聞主催、駿台予備校、代々木ゼミナール協賛、2019年1月9日、朝日新聞、P19-21、2019年1月9日閲覧。
関連図書
[編集]- おおたとしまさ『中学受験 注目校の素顔 鷗友学園女子中学高等学校』ダイヤモンド社〈学校研究シリーズ 7〉、2014年12月19日。ISBN 978-4478046791。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 鷗友学園女子中学高等学校
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