高橋雅裕
群馬ダイヤモンドペガサス 監督 #89 | |
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2024年6月5日 横須賀スタジアムにて撮影 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県豊明市 |
生年月日 | 1964年7月10日(60歳) |
身長 体重 |
177 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手、外野手 |
プロ入り | 1982年 ドラフト4位 |
初出場 | 1985年9月11日 |
最終出場 | 1999年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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高橋 雅裕(たかはし まさひろ、1964年7月10日 - )は、愛知県豊明市[1]出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)、野球指導者、野球解説者でもある。一時期「高橋 眞裕」と改名したこともある。右投げ右打ち(1993年ごろまでは両打ち)。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]名古屋電気高等学校[2]では2年生の時、1年上のエース工藤公康を擁し、二塁手として1981年夏の甲子園に出場[3]。準決勝に進むが、報徳学園の金村義明に抑えられ惜敗[4]。工藤以外の1学年先輩のチームメートに捕手の山本幸二と遊撃手の中村稔がおり、安達俊也は1学年後輩にあたる。翌1982年夏も県予選準決勝に進むが、野中徹博を擁する中京高に敗退、甲子園には届かなかった。
1982年度ドラフト会議にて横浜大洋ホエールズから4位指名を受けて入団。
プロ入り後
[編集]1985年はイースタン・リーグで16盗塁を記録[1]。1軍では主に二塁手の控えとして24試合に出場[5]。1986年は加藤博一の故障により、2番打者としての出場が増える。俊足の持ち主で、犠打などの小技も巧みなことから、“ニュースーパーカートリオ”の呼び名もあがった[5]。
1987年には古葉竹識監督に重用され、遊撃手のレギュラーに定着。翌1988年に同じ遊撃手であった山下大輔がシーズン開幕前日に引退したのは、高橋のレギュラー定着によるものともいわれている。
1988年5月6日から1番打者として全試合に出場、打率.293(542打数159安打)という成績を残す。守備においては1988年から1989年にかけて、山下を超える遊撃手の連続無失策記録を樹立。1988年については、全試合に遊撃手として出場して失策7、守備率.989は全12球団の遊撃手でもっとも高かった。しかし1988年のセ・リーグ遊撃手部門表彰は、ゴールデングラブ賞が中日のルーキー・立浪和義、ベストナインも当時パワーヒッターとして活躍していたヤクルトの池山隆寛が獲得した。
1989年の開幕戦で連続無失策が記録が途切れると、昨年見せた堅守が一転し、この年は86試合で18失策を記録するなど、左肘骨折の影響もあって精彩を欠くプレーが多くなった。さらに翌1990年、監督が古葉から須藤豊に代わってからは、進藤達哉や石井琢朗など若手の台頭もあって出場機会が減少。以降は右打席に専念して代打や外野を含む守備要員となった。
1997年には千葉ロッテマリーンズへ移籍。ユーティリティープレイヤーとして主に内・外野の控えから犠打要員としてチームを支えた[5]。1999年シーズンを最後に現役を引退。
大洋での応援歌は童謡「グリーングリーン」からの採譜で、球団名が横浜ベイスターズに変わった際に別の曲となったが、ロッテへの移籍後に再び使用された。古巣ではその後、ライアン・グリンの応援歌原曲としても使用された。
現役引退後
[編集]引退後はロッテで一軍外野守備・走塁コーチ(2000年, 2002年)、二軍外野守備・走塁コーチ(2001年)を務めた。2005年には新球団・東北楽天ゴールデンイーグルス一軍守備・走塁コーチに就任したが、1年で解任。楽天退団後はJ SPORTS・tvk解説者(2006年 - 2007年)を経て、2008年は横浜に一軍走塁コーチとして復帰したが、チームが最下位に低迷したため、1年で解任された。
横浜退団後は東北放送・STVラジオ・スカイ・A sports+解説者(2009年 - 2010年)を経て、2011年から韓国プロ野球・起亜タイガース守備コーチに就任したが、同年限りで退任した。2012年より東北放送・TBSニュースバード、2014年からTBSチャンネル2解説者に就任した。
2015年からベースボール・チャレンジ・リーグ、群馬ダイヤモンドペガサスの内野守備コーチに就任。2016年からは野手コーチとなり[6]、2019年に退任した[7]。
2023年11月1日、5年ぶりに群馬に復帰して監督に就任することが発表された[8]。
プロ野球マスターズリーグにも参加。2005年から2006年シーズンは札幌アンビシャスの一員としてプレーし、打率.657という驚異的な数字で首位打者を獲得。チームも優勝し、MVPに選ばれた。
選手としての特徴・人物
[編集]俊足・強肩を生かした堅実な内野守備が最大の武器。打撃では犠打などの小技が巧みであった。守備では主に遊撃手を守ったが、1993年ごろからは外野手にも回り、常時4種類のグラブを用意するようになった。1994年には一塁手で出場し、捕手を除く全ポジションでの出場を果たしている[5]。
盗塁成功率は高かったものの、自分の走力だけを頼みに走る傾向があり、後に高橋は「もうちょっと自分の足に自信を持って、相手バッテリーの考え方が分かっていれば、もっと走れたと思う」と語っている[5]。
高校卒業後は社会人のトヨタ自動車へ進むことが内定していたが、ドラフト会議で大洋から4位で指名されると、嬉しさのあまり入団を即答したという[5]。
1994年の試合で急遽一塁手を守ることになり、ファーストミットを持っていなかったため、その場は外野手用のグラブで対応した。その後、ファーストミットを発注している[5]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1985 | 大洋 横浜 |
24 | 39 | 32 | 5 | 8 | 2 | 0 | 0 | 10 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 0 | .250 | .314 | .313 | .627 |
1986 | 103 | 228 | 204 | 29 | 46 | 9 | 2 | 0 | 59 | 8 | 18 | 2 | 15 | 0 | 8 | 0 | 0 | 58 | 2 | .225 | .255 | .289 | .544 | |
1987 | 128 | 507 | 438 | 45 | 104 | 9 | 3 | 2 | 125 | 24 | 14 | 9 | 27 | 4 | 36 | 7 | 2 | 102 | 6 | .237 | .296 | .285 | .581 | |
1988 | 130 | 585 | 542 | 62 | 159 | 22 | 2 | 3 | 194 | 42 | 16 | 3 | 4 | 5 | 34 | 1 | 0 | 96 | 3 | .293 | .332 | .358 | .690 | |
1989 | 86 | 305 | 268 | 25 | 60 | 14 | 0 | 2 | 80 | 27 | 5 | 4 | 2 | 3 | 30 | 6 | 2 | 47 | 4 | .224 | .304 | .299 | .602 | |
1990 | 119 | 473 | 385 | 47 | 87 | 16 | 2 | 2 | 113 | 15 | 14 | 4 | 40 | 1 | 44 | 0 | 3 | 76 | 4 | .226 | .309 | .294 | .603 | |
1991 | 99 | 307 | 250 | 41 | 57 | 16 | 2 | 0 | 77 | 16 | 17 | 3 | 27 | 0 | 29 | 0 | 1 | 54 | 3 | .228 | .311 | .308 | .619 | |
1992 | 22 | 25 | 22 | 3 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 10 | 0 | .136 | .240 | .182 | .422 | |
1993 | 86 | 215 | 185 | 24 | 46 | 5 | 1 | 3 | 62 | 12 | 7 | 4 | 2 | 1 | 24 | 0 | 3 | 45 | 3 | .249 | .343 | .335 | .678 | |
1994 | 81 | 159 | 131 | 18 | 26 | 5 | 2 | 1 | 38 | 11 | 1 | 2 | 8 | 1 | 19 | 0 | 0 | 21 | 1 | .198 | .298 | .290 | .588 | |
1995 | 68 | 96 | 84 | 20 | 22 | 6 | 0 | 1 | 31 | 6 | 2 | 1 | 3 | 0 | 9 | 0 | 0 | 18 | 3 | .262 | .333 | .369 | .702 | |
1996 | 56 | 56 | 45 | 6 | 8 | 2 | 1 | 0 | 12 | 2 | 1 | 3 | 2 | 0 | 9 | 1 | 0 | 13 | 0 | .178 | .315 | .267 | .581 | |
1997 | ロッテ | 44 | 15 | 12 | 8 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 0 | .250 | .357 | .250 | .607 |
1998 | 4 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1999 | 51 | 54 | 40 | 13 | 13 | 2 | 0 | 0 | 15 | 4 | 1 | 1 | 6 | 0 | 8 | 0 | 0 | 12 | 0 | .325 | .438 | .375 | .813 | |
通算:15年 | 1101 | 3069 | 2642 | 346 | 642 | 109 | 15 | 14 | 823 | 168 | 100 | 36 | 142 | 15 | 258 | 15 | 11 | 564 | 30 | .243 | .311 | .312 | .623 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
記録
[編集]- 初出場・初先発出場:1985年9月11日、対阪神タイガース22回戦(横浜スタジアム)、8番・二塁手として先発出場
- 初安打:同上、9回裏に嶋田章弘から二塁打
- 初盗塁:1985年10月2日、対読売ジャイアンツ25回戦(横浜スタジアム)、9回裏に二盗(投手:鹿取義隆、捕手:山倉和博)
- 初打点:1986年5月10日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤ球場)、7回表に宮下昌己から決勝適時打
- 初本塁打:1987年8月13日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、5回表に森口益光から2ラン
- 1000試合出場:1996年9月1日、対広島東洋カープ23回戦(横浜スタジアム)、6回表に宮川一彦に代わり三塁手として出場 ※史上337人目
背番号
[編集]- 32 (1983年 - 1987年)
- 6 (1988年 - 1996年)
- 35 (1997年 - 1999年)
- 80 (2000年 - 2002年、2005年)
- 82 (2008年)
- 78 (2011年)
- 88 (2015年 - 2019年)
- 89 (2024年 - )
登録名
[編集]- 高橋 雅裕 (たかはし まさひろ、1983年 - 1990年、2005年、2008年、2011年、2015年 - 2019年、2024年 - )
- 高橋 眞裕 (たかはし まさひろ、1991年 - 2002年)
関連情報
[編集]出演番組
[編集]- J SPORTS
- TBSニュースバード
- 侍プロ野球(BS-TBSにネットされる場合あり)
- tvk
- 東北放送
- TBC Exciting Ballpark - テレビ
- TBCイーグルスナイター/TBCイーグルスベースボール - ラジオ
- STVラジオ
- スカイ・A sports+
脚注
[編集]- ^ a b プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、323ページ
- ^ OB紹介
- ^ 【高橋雅裕 連載コラム】工藤先輩にはよく口撃されたけど…今でも大きな存在 | 東スポのプロ野球に関するニュースを掲載
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ a b c d e f g “高橋雅裕 深海の底に沈んでいくクジラで輝いた名ワキ役/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年7月11日閲覧。
- ^ ジャパン・ベースボール・マーケティング 高橋 雅裕
- ^ 平野監督及び高橋野手コーチ退任のお知らせ - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2019年11月12日)
- ^ 新監督決定のお知らせ - 群馬ダイヤモンドペガサス(2023年11月1日)2023年11月1日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 高橋眞裕 - NPB.jp 日本野球機構
- 高橋雅裕公式ホームページ
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)