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高円広世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高円広成から転送)
 
高円広世
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
改名 広成→広世
官位 正五位下伊予守
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇
氏族 石川朝臣→高円朝臣
父母 父:不明(文武天皇?)、母:石川氏(石川刀子娘?)
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高円 広世(たかまど の ひろよ)は、奈良時代貴族。名はもと広成[1]氏姓石川朝臣のち高円朝臣。官位正五位下伊予守

出自

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新撰姓氏録』によると、高円氏(高円朝臣)は広世を祖とする皇別氏族で、さらに広世は当初母方の氏姓である石川朝臣を称していたとされる[2]。そのため、広世を文武天皇とその嬪であった石川刀子娘の間に生まれた皇子で、和銅6年(713年)に石川刀子娘が嬪の称号を廃された際に、広世も皇籍を剥奪されたものとの説がある[3]。当時、持統天皇藤原不比等が望んだ文武天皇首皇子への皇位継承路線と、蘇我系皇族(氷高内親王吉備内親王長屋王、長屋王の皇子達)への皇位継承を模索する路線との間に、微妙な雰囲気が生じていた[4]。蘇我氏(石川氏)は天皇家の母方氏族として、また大化以前における唯一の大臣(オホマヘツキミ)家として、その尊貴性を認められており、その認識は律令制が成立してもなおその認識は旧守的な氏族層や皇親の間に残存していた可能性が高く、皇女所生の文武皇子が存在しないならば、藤原氏の産んだ皇子と、石川氏の産んだ皇子とのいずれかを皇嗣としなければならない場合、必ずしも藤原宮子所生の首皇子を推すものばかりではなかったと考えられる[4]。そのため、広成が皇籍を剥奪されたのは、異母兄弟の首皇子(後の聖武天皇)の競争相手を排除しようとしての藤原不比等橘三千代夫婦の陰謀とされ、この出来事は蘇我氏から藤原氏への、王権のミウチ氏族の主役の交代を象徴していることになる[4]

これに対して『新撰姓氏録』に記されたのは広世の母が石川朝臣の出であることのみで石川刀子娘であるという証拠は存在しないこと、石川朝臣は元々皇別である以上そこから分かれた高円朝臣も皇別氏族となるとして、広世が何らかの事情で父親の戸籍に入れなかったことと『新撰姓氏録』編纂時にはその父親が誰であったか不明であったこと以上の事実は確認できず、文武天皇と石川刀子娘の子である事実は認められないとする反論もある[5]

経歴

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天平年間中期(740年頃)に家族と別れて恭仁京に赴任していたらしく、家族を思って詠んだ和歌作品が『万葉集』に残っている[6]。また、天平15年(743年)頃内舎人を務めている[7]

天平宝字2年(758年淳仁天皇即位に伴って、従六位上から三階昇進して従五位下叙爵される。但馬介を経て、天平宝字4年(760年)母方の氏姓であった石川朝臣から高円朝臣に改姓し、同年文部少輔に任ぜられる。のち、摂津亮尾張守山背守を歴任し、天平宝字8年(764年)正月には従五位上・播磨守に叙任される。藤原仲麻呂政権下では畿内またはその近辺の大国上国の地方官を歴任していたものの、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱で活動した記録はなく、乱後の10月には播磨守の官職藤原黒麻呂に取って代わられている。

称徳朝では周防守伊予守と引き続き地方官を歴任したが、伊予守在任中の神護景雲3年(769年)瑞祥となる白鹿1頭を貢進し、さらに翌神護景雲4年(770年)には伊予員外掾・笠雄宗が再び白鹿を献上したことから、伊予国の神護景雲3年(769年)以降の正税の未納を免除された[8]。同年10月の光仁天皇の即位に伴い正五位下に昇叙されている。

『万葉集』に3首、『玉葉和歌集』に1首の和歌作品が採られている[9]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による[10]

脚注

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  1. ^ ただし、「広成」と「広世」を同一人物とするのは誤りで兄弟とみるのが妥当であるとの説(佐伯有清の説、及び成城大学大学院文学研究科教授外池昇による『』、1994年、P287)もある。
  2. ^ 新撰姓氏録』右京皇別
  3. ^ 角田文衛「首皇子の立太子」(『律令国家の展開』塙書房、1965年)
  4. ^ a b c 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  5. ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P95-96)初版は1986年
  6. ^ 『万葉集』巻8-1600,1601
  7. ^ a b 『万葉集』巻8-1600
  8. ^ 『続日本紀』宝亀元年5月11日条
  9. ^ 『勅撰作者部類』
  10. ^ 原文では「広成」と「広世」が別々にでてくるがこの表では区別せず年代順に並べる。
  11. ^ 『大日本古文書(編年文書)』15巻131頁

参考文献

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