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伊吉宅麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
雪連宅満から転送)

伊吉 宅麻呂(いき の やかまろ、生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、奈良時代官人伊支または、名は宅満とも記される。下野守伊吉古麻呂の子。

経歴

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天平8年(736年)4月に遣新羅使の随行員として大使・阿倍継麻呂らと出航するが、佐婆の海中(現在の防府市沖の周防灘)で嵐に遭い、数日漂流の末に順風を得て豊前国下毛郡分間浦(現在の大分県中津市田尻・今津付近か)に漂着。この時に宅麻呂が詠んだ和歌1首が『万葉集』に採録されている[1]。のち、宅麻呂は壱岐島まで渡るが疫病にかかり卒去。その時の挽歌である長歌3首と短歌6歌が『万葉集』に採られているが[2]、挽歌9首の構成は『万葉集』の中でも異例のものとなっている。

その後、遣新羅使は新羅に到着するが、当時日本と新羅との関係は悪化していたため、使節としての使命は受け入れられなかった[3]

その他の経歴は明らかでないが、伊伎島司神祇官宮主を務めたともされる[4]

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没後、島人の手により、石田野(現在の壱岐市石田町池田東触字石田峰)に葬られ、雪連宅満の墓となっている。命日とされる旧暦11月8日に念仏を唱える供養が行われているが、この供養は夕刻に行うことから「夕飯祈祷(ヨーメシギトウ)」とも呼ばれる[5]

系譜

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脚注

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  1. ^ 『万葉集』巻15-3644
  2. ^ 『万葉集』巻15-3688~3696
  3. ^ 『続日本紀』天平9年正月27日条
  4. ^ a b c d e 『松尾社家系図』(『続群書類従』巻第181所収)
  5. ^ 雪連宅満の墓 壱岐市立一支国博物館