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雪印集団食中毒事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

雪印集団食中毒事件(ゆきじるししゅうだんしょくちゅうどくじけん)とは、2000年平成12年)6月から7月にかけて、近畿地方を中心に発生した、雪印乳業(現:雪印メグミルク)の乳製品(主に低脂肪乳)による集団食中毒事件。

本事件は認定者数が14,780人[1][注 1]にものぼる戦後最大の集団食中毒事件となり、石川哲郎社長が引責辞任に追い込まれた。

経緯

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停電による菌増殖

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2000年3月31日北海道にある雪印乳業大樹工場の生産設備で氷柱の落下に伴う3時間の停電が発生し、同工場内のタンクにあった脱脂乳が20度以上にまで温められたまま約4時間も滞留した。この間に病原性黄色ブドウ球菌が増殖したことで、4月1日製造分の脱脂粉乳内に毒素エンテロトキシンA)が発生した[1]

本来なら滞留した原料は廃棄すべきものであったが、殺菌装置で黄色ブドウ球菌を死滅させれば安全と判断し、脱脂粉乳を製造した。工場は同日分の脱脂粉乳に細菌が異常繁殖していることを4月3日に把握したが、製造課長は叱責を恐れてこれを隠蔽[2]。そのまま出荷されたほか、4月10日製造分の脱脂粉乳に再利用された。黄色ブドウ球菌自体は死滅したが、毒素が残ったまま脱脂粉乳は大阪工場に送られた。

この汚染された脱脂粉乳は、大阪工場(大阪府大阪市都島区都島南通)で6月21日から29日までの間に製造された「雪印低脂肪乳」に使用されたほか、6月25日26日に製造された加工乳3種(「のむヨーグルトナチュレ」「のむヨーグルト毎日骨太」「コープのむヨーグルト」)の製造に使用され[1]、スーパーマーケットを中心とした近畿地方一円の小売店に出荷された。

食中毒の発生

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6月25日、雪印低脂肪乳を飲んだ和歌山県の子供三人が初めて嘔吐の症状を呈した。しかし和歌山県保健所は夏風邪を疑い、食中毒の調査を行わなかった[3]ため、行政の初動は大きく後れを取ることとなった。

6月27日大阪市内の病院から大阪市保健所に食中毒の疑いが通報された。28日には同様の事例が2件確認されたため大阪市保健所が大阪工場に立入調査を行い、疑いのある製品の自主回収と社告の新聞掲載を指導した。

しかし、大阪工場は本社重役が株主総会出席中のため判断を先延ばしとし、翌29日にようやく約30万個の製品の回収のみを始めたが、社告は行わなかった。同日、大阪工場の対応に危機感を抱いた大阪市保健所は独自で記者発表を行い、食中毒の疑いを公表した。深夜には大阪工場が初めて記者発表を行い、当座の低脂肪乳製造休止を発表する。汚染製品の出荷が始まった21日から8日後の休止であり、被害を食い止めるには遅すぎる対応であった。

果たして、公表後は被害の訴えが近畿一円に殺到し、大阪府・兵庫県・和歌山県・滋賀県など広範囲に渡って被害が報告され、最終的に14,780人という前代未聞の食中毒被害者となった。被害者の訴えた症状は嘔吐・下痢腹痛を中心にし、総じて比較的軽いものであったが、入院に至った重症者もいた。奈良県の80代の女性1名が入院後に死亡しているが、大阪地方裁判所の判決では入院後の医療ミスが原因と判断されている。

6月30日和歌山市衛生研究所が検体の低脂肪乳から黄色ブドウ球菌の毒素産出遺伝子を検出し、同日には大阪市保健所が正式に製品の回収を命令した。

7月1日朝、大阪市保健所と厚生省(現・厚生労働省)の担当者が大阪工場に立入調査を行い、製造ラインの調合タンクと予備タンクの間のバルブに黄色ブドウ球菌が繁殖しているのを検出した。しかし大阪支社は発表を逡巡し、直後の記者発表では汚染物質の存在を否定した。同日午後の記者発表でようやく汚染を認めたが、石川社長は会見内容を事前にまともに聞かされておらず、会見中の担当者の発表に驚き「君、それは本当かね」と口を挟む混乱ぶりであった。

7月2日、大阪市保健所は大阪工場に対して無期限の操業停止を命じた(その後、操業再開されることはなく、2001年(平成13年)3月末に閉鎖された)。

7月5日、黄色ブドウ球菌による汚染が明らかになったバルブは、同工場が1998年に食品の製造過程の管理の高度化に関する臨時措置法によるHACCP認定を受けた際に存在したにもかかわらず申請図面に存在しないことが明らかになった。また本来のパイプとは別に同じく申請図面にない仮設ホースが設置され、ホース接続により屋外(当然ながら清潔作業区域外である。)の移動式溶解機による作業が行われていたことも判明した。

7月9日、大阪市保健所は大阪工場のずさんな衛生管理が食中毒の主因としながらも、バルブから検出された菌が黄色ブドウ球菌ではなかったことを発表した。これは、検体の黄色ブドウ球菌毒素の検出と矛盾するが、核心となるべき調合室の記録が粗悪で原料の追跡が困難であったため、その後の大阪府警察による原因解明まで謎として残ることとなる。

また、返品された製品を製造工程に再利用していたことも明らかにされた[4]

記者会見によるイメージダウン

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食中毒発覚後の雪印乳業は場当たり的な対応に終始し、新たな事実が発覚するたびに説明を翻したり弁明を繰り返し続けた。最も有名なのは7月4日の会見であり、この日も石川社長は、「黄色人種には牛乳を飲んで具合が悪くなる人間が一定数いる。」などの説明を繰り返し、1時間経過後に一方的に会見を打ち切った。

エレベーター付近で寝ずに待っていた記者団にもみくちゃにされながら、記者会見の延長を求める記者に「では後10分」と答えたところ「何で時間を限るのですか。時間の問題じゃありませんよ。」と記者から詰問され、「そんなこと言ったってねぇ、わたしは寝ていないんだよ!!」と発言[5]。一方の報道陣からは記者の一部が「こっちだって寝てないですよ! そんなこと言ったら、10ヶ月の子供が病院行ってるんですよ!寝てないとかそういう問題じゃないでしょう」と猛反発。石川社長は「はい、それはわかっています」とすぐ謝ったものの、この会話がマスメディアで広く配信されたことから、世論の批判を浴びることとなった。石川社長は7月9日に入院し、そのまま辞任した。

雪印乳業に対する世間の不信感は日を追うごとにつのり、小売店からは雪印食品雪印ローリーを含む雪印グループ商品が次々と撤去され、返品も認められなかった商品が廃棄される様子が連日報道され、ブランドイメージも急激に悪化した。大手スーパーマーケット「ジャスコ」の岡田元也社長(当時)は、「お客は雪印製品を誰も買わない」と吐き捨てた[6]

操業停止

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上記のような急激なイメージダウンや反発もあって、7月11日に雪印乳業全工場の一時操業停止が発表された。その後、安全点検が終了し、8月2日に厚生省が大阪工場以外の工場の安全宣言を発表したため、生産は徐々に回復していった。

しかし、その後の大阪府警察の捜査により、食中毒の真の原因が大樹工場の脱脂粉乳であることが明らかになると、8月18日に大阪府から北海道に大樹工場の調査依頼が行われ、8月19日20日に帯広保健所の担当者が大樹工場の立ち入り調査を行った。当初、工場側は異状の発生を否定したが、大樹工場の検体から食中毒患者と同じ毒素が検出されたことから保健所がさらにヒアリングを行ったところ、停電の事実が明らかとなり、同工場が食中毒の原因であることが確認された旨を8月23日に北海道が発表するとともに、大樹工場に操業停止を命じた。

これにとどまらず、8月29日の北海道の発表により、業務日報の生産数と異なる製品が見つかったほか、4月1日製造の汚染された脱脂粉乳が7月12日製造にラベルが貼り替えられた状態で保管されているなど、日常的な改ざん・偽装が行われていることが判明した。もはやどの製品が安全であるか誰にも判別できない大樹工場は、保健所の指導を受け、やむなく9月1日に脱脂粉乳の全ての在庫を廃棄した。

その後、9月22日に大樹工場から北海道に改善計画書が提出され、保健所が安全を確認した10月13日に操業停止が解除された。

幹部の立件

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大阪府警の捜査により、雪印乳業社長、専務、大樹工場長、製造課長、製造課主任の5人が大阪地方検察庁書類送検されたが、社長と専務は事件の予見不可能として不起訴処分となった。

工場長と製造課主任には、食中毒を発生させた業務上過失傷害に加え、帯広保健所に虚偽の書類を提出した食品衛生法違反の罪で、2003年5月27日に大阪地裁で「執行猶予付きの禁固刑」が言い渡された。製造課長は公判中に、交通事故で死亡した。

その後の混乱

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その後、雪印グループの製品が全品撤去に至るなど、親会社の不祥事とは言え、グループ会社全体の経営が悪化する。そして2001年から2002年(平成14年)にかけてBSE問題が表面化。これによって追い打ちをかけられたグループ会社の雪印食品は、雪印牛肉偽装事件(雪印乳業本体ではなく、子会社不監督)を発生させた。この事件によって信用失墜は決定的になり、グループの解体・再編を余儀なくされる結果となった。さらにこれが原因で、同社がスポンサーであった『料理バンザイ!』(テレビ朝日系)が、2002年3月31日で放送終了となった。

雪印グループはこの連続した企業不祥事により企業イメージが失墜して経営危機に陥り、農協系(主にメインバンクだった農林中央金庫及び全国農業協同組合連合会)の支援の下、他社との提携・分社化によるグループの解体・再編を実施した。雪印乳業自体はグループの乳食品事業を継承して存続した後、2009年に日本ミルクコミュニティ持株会社方式で経営統合し、2011年に日本ミルクコミュニティ共々、親会社である雪印メグミルクに吸収され消滅した。

なお、雪印グループはスキージャンプアイスホッケーなどウィンタースポーツの振興に寄与していたが、雪印グループの再編により雪印の実業団は、(スキージャンプのチームである)「チーム雪印」を除き廃され、多くの選手が競技を続けられなくなった。長引く不景気により多くの企業が実業団に資金を注げなくなったこともあり、1998年長野冬季オリンピックではスキージャンプで金メダルを獲得するまでに至っていた日本のウィンタースポーツは急速に凋落の一途を辿ることとなる。また、雪印乳業は当事件発生を理由に、JTキーコーヒーとともに展開予定だった『Roots』ブランド[注 2]を返上・離脱した[注 3]

1997年(平成9年)の山一證券北海道拓殖銀行日本長期信用銀行の倒産ともあわせ、戦後のバブル経済まで絶対的に信奉されてきた「一流企業」ブランドに対する信頼は崩れ落ち、高度経済成長期以来の価値観の転換を象徴する事件となった。

さらにこの事件が社会に与えた影響として以下のものが挙げられる。

  • 加工乳の混合物から食中毒が発生したことを踏まえ、2001年7月に飲用乳の表示に関する公正競争規約が変更され、コーヒー牛乳フルーツ牛乳などの生乳100%ではない商品に「牛乳」の名称を使用することが禁止された。
  • 当初、牛乳・乳製品に対する不安から需要は低下すると予測され、同業各社は減産を検討していたが、需要がほとんど低下しなかった上、加工乳から無調整牛乳へ需要が集中したため、最大手の雪印乳業が事実上操業停止となった2000年夏ごろをピークに、明治乳業(現:明治)・森永乳業などの大手から地域の零細メーカーまで、フル操業でも供給不足となるなど、牛乳不足が深刻となった。
  • お膝元である北海道では、雪印全工場の操業停止により「地元で作られた牛乳を地元で飲めない」という問題が発生。中でもパイロットファームで有名な、根釧原野を有する釧路根室地方では、市乳工場であった雪印乳業釧路工場が撤退していたため、他地域以上に問題視された。このためよつ葉乳業は首都圏向け商品に特化していた根釧工場で、2004年(平成16年)から「根釧牛乳」を生産・発売することとなった。
  • 乳製品の再利用について、2001年5月社団法人日本乳業協会が「飲用乳の製品の再利用に関するガイドライン[7]」を作成し、「工場の冷蔵管理下にある一定量の製品についてのみ行われる」ことが決定された。
  • 大阪工場が総合衛生管理製造過程HACCPが要件、厚生労働省が審査/承認)承認工場であったことから、それまで書類審査のみであった承認審査に現地調査が導入されるとともに、3年ごとに更新申請が必要とされるなど、「総合衛生管理製造過程」見直しのきっかけとなった。
  • 当事件をきっかけに雪印乳業大阪工場が閉鎖。跡地にマンション生活協同組合おおさかパルコープ都島支所が建設された。8月には同じ近畿で京阪牛乳の製品から食中毒事件が発生。原因は販売店の杜撰な管理にあったものの、風評被害が大きく京阪牛乳は牛乳事業からの完全撤退に追い込まれた。
  • 食の安全全体に対する不安が高まり、他業種でも衛生管理をめぐる不祥事が明るみに出たり、パントマトジュースなどをはじめとした食品への異物(など)が混入が明らかになると、以前では考えられなかった全製品の回収が行われるようになった。

脚注

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注釈

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  1. ^ ただしこれは自己申告を中心とする数字であり、額面通りには受け取れない。医学的な検討により、第3次診定で食中毒と認定できたのは13,420人に減少しており(『時事ニュースワード2001』(時事通信社)はこの数字を被害者数としている)、さらに最終の第5次診定では4,852人まで減少している。
  2. ^ 雪印では、「Roots」ブランドによるテトラパック入りのミルクコーヒーをスーパーマーケットとコンビニエンスストア、雪印牛乳販売店の販売ルートで発売する予定だった。
  3. ^ なお、『Roots』ブランドは、JTとキーコーヒーの2社で展開していたが、2015年9月、JTが飲料事業から撤退してサントリー食品インターナショナルへブランドを譲渡した(2016年1月時点)。

出典

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  1. ^ a b c 雪印乳業食中毒事件の原因究明調査結果について”. 厚生労働省 (2000年12月). 2023年10月16日閲覧。
  2. ^ 北海道新聞取材班 2002, p. 156.
  3. ^ 日本経済新聞2000年7月8日朝刊
  4. ^ 朝日新聞2000年7月10日朝刊
  5. ^ 雪印乳業食中毒事件 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス
  6. ^ 産経新聞2000年7月7日朝刊
  7. ^ 社団法人日本乳業協会 (2001年5月). “飲用乳の製品の再利用に関するガイドライン” (PDF). 日本ミルクコミュニティ株式会社. 2004年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月14日閲覧。

参考文献

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  • 北海道新聞取材班『検証・「雪印」崩壊 その時、何がおこったか』講談社講談社文庫〉、2002年。ISBN 978-4-06-273476-9 

関連項目

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外部リンク

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