静田二三夫
しずた ふみお 靜田 二三夫 | |
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本名 | 隆野 唯勝 (たかの ただかつ) |
生年月日 | 1918年1月5日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 大阪府大阪市 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 劇映画(時代劇・現代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1933年 - 1950年 |
配偶者 | 有島鏡子(離婚) |
主な作品 | |
『益満休之助 陽炎篇』 『聖剣 荒木又右衛門』 『忍術虎若丸』 『唐獅子城 前篇』 |
静田 二三夫(しずた ふみお[注釈 1]、1918年1月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6]。靜田 二三夫と表記されることもある。本名は隆野 唯勝(たかの ただかつ)[1][2][3][4][5][6]。宝塚キネマ、極東キネマなどの三流キネマで活躍した「若衆スター」であり、後年は本名で東宝の戦争映画にも出演していた[2]。
来歴・人物
[編集]1918年(大正7年)1月5日、大阪府大阪市に生まれる[1][2][3][4][5][6]。
1933年(昭和8年)12月、旧制大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)を中退し、宝塚キネマ興行へ研究生として入社[1][2][3][4][5][6]。静田二三夫という芸名で、同年11月1日に公開された仁科熊彦監督映画『艶姿影法師 陽炎篇』に、作家直木三十五(1891年 - 1935年)の推薦で映画デビューを果たす[1][2][3][4][5][6]。また、同年12月31日に公開された後藤岱山監督映画『韋駄天数右衛門』では大石主税役として注目されたが、翌1934年(昭和9年)4月10日に同社は解散した[2][3][4]。
その後、同年2月に宝塚キネマ興行から新たに新設された興国キネマを経て、1935年(昭和10年)2月、極東キネマ(極東映画)へ移籍[1][2][3][4][5][6]。同年3月20日に公開された仁科熊彦監督映画『益満休之助 比叡の巻』を始め多くの時代劇に出演し、新鮮さ溢れる若衆役者ぶりを発揮した[1][2][3][4][5][6]。その後、同社の俳優仲間であった有島鏡子(本名鈴木はつ子、1916年 - 1987年)と結婚し、1937年(昭和12年)11月に有島と共に一時退社[2][3][4][5]。翌1938年(昭和13年)9月、有島と共に極東キネマに復帰を果たすも後に応召され、再び退社を余儀なくされる[2][3][4][5]。1939年(昭和14年)9月、名古屋帝国館で公演された静田二三夫一党の実演で復帰し、有島、千早和子、轟渡と共演する[5]。ところが、同年に有島と離婚[5]。有島は同年7月に全勝キネマへ移籍するが、静田は1940年(昭和15年)の極東映画と梅田劇場(現在のHEP、TOHOシネマズ梅田)との合併により大宝映画に改称された後も引き続き移行した[5]。ところが、同社は1本も映画製作されないまま、翌1941年(昭和16年)2月に解体される[5]。
1943年(昭和18年)、芸名を本名の隆野唯勝に改名して東宝に入社[2][3][4][5][6]。以降は脇役に回るが、同年4月29日に公開された山本嘉次郎監督映画『あさぎり軍歌』などの戦争映画で堅実さを見せた[2][5]。戦後も同社で活動を続け、1948年(昭和23年)まで在籍した[5]。また、1950年(昭和25年)2月26日に公開された東横映画京都撮影所製作の関川秀雄監督映画『戦慄』にもフリー出演していたが、同作以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である[1][2][3][4][5][6]。没年不詳。静田の来歴ついて記載されている資料はほとんど存在しない。また、キネマ旬報映画データベースにおいても静田の項目は確認できない。
出演作品
[編集]宝塚キネマ興行
[編集]全て製作・配給は「宝塚キネマ興行」、全てサイレント映画、全て「静田二三夫」名義である。
- 『艶姿影法師 陽炎篇』:監督仁科熊彦、1933年11月1日公開 - 息子平馬
- 『韋駄天数右衛門』:監督後藤岱山、1933年12月31日公開 - 大石主税
- 『田宮坊太郎 春風礫の剣法』(『春風礫の剣法』):監督堀江大生・外山凡平・真野健次、1933年月日不明公開[5]
- 『艶姿影法師 蒼窓篇』:監督仁科熊彦、1934年1月4日公開 - 息子平馬
興国キネマ
[編集]製作は「興国キネマ」、配給は「早川興行」、サイレント映画、「静田二三夫」名義である。
極東キネマ
[編集]特筆以外、全て製作は「極東キネマ古市白鳥園撮影所」、配給は「極東キネマ」、特筆以外は全てサイレント映画、全て「静田二三夫」名義である。
- 南国太平記 - 仙波小太郎
- 『南国太平記 益満休之助 比叡の巻』:監督仁科熊彦、製作極東映画御室仮撮影所、1935年3月20日公開
- 『南国太平記 益満休之助 江戸の巻』:監督仁科熊彦、製作極東映画御室仮撮影所、1935年4月10日公開
- 『南国太平記 益満休之助 完結篇』:監督下村健二、製作極東映画甲陽撮影所、1935年5月8日公開
- 『弥八妻恋唄』:監督山口哲平、1935年5月8日公開[4]
- 『白面の兇盗』:監督下村健二、1935年5月15日公開[4]
- 『聖剣 荒木又右衛門』(『荒木又右衛門』『剣聖荒木又右衛門』[4]):監督仁科熊彦、製作極東映画甲陽撮影所、1935年5月30日公開 - 荒木数馬
- 『武家姿日本晴れ』:監督金田繁、製作極東映画甲陽撮影所、1935年6月28日公開 - 豪農の伜七之介(主演)[4]
- 『魔刃紅蜥蜴 前後篇』:監督仁科熊彦、1935年7月4日公開[4]
- 『血煙天龍川』:監督山口哲平、1935年8月9日公開[4]
- 『関口武勇傳』:監督仁科熊彦、1935年8月15日公開[4]
- 神風豪鬼隊:監督金田繁、製作極東映画甲陽撮影所 - 青木吉弥・木下吉弥(2役)
- 『伊達誠忠録』:監督仁科熊彦、1935年10月15日公開[4]
- 『忍術真田十勇士』:監督仁科熊彦・山口哲平、1935年11月15日公開[4]
- 『愛国少年団』:監督米沢正夫、1935年月日不明公開 - 飛行隊の兄(主演)[4]
- 『うかれ三人道中記』:監督米沢正夫、1936年4月22日公開 - 主演[4]
- 『銭五曼陀羅』:監督後藤岱山、1936年5月14日公開[4]
- 『忍術御前大試合』:監督後藤岱山、1936年6月5日公開[4]
- 『妖術白縫蜘蛛』:監督米沢正夫、1936年11月20日公開 - 大友花形丸
- 『忍術真田大助』:監督稲葉蛟児(鈴木迪雄[4])、製作極東映画甲陽撮影所、1936年月日不明公開
- 『忍術四天王』:監督鈴木迪雄、1937年1月31日公開 - 一文字五郎丸[4]
- 渦潮の果:監督米沢正夫
- 『神州白馬嶽』:監督清水晴光、1937年4月20日公開 - 日夏欣吾[4]
- 『怪盗天魔剣』:監督西藤八耕、1937年4月22日公開[4]
- 『忍術大阪冬の陣』:監督小倉八郎、1937年4月29日公開[4]
- 『八荒青竜隊』:監督国島昌平、1937年5月6日公開
- 『尼子十勇士』:監督山口哲平、1937年5月13日公開[4]
- 『呪のまだら猫』(『呪ひのまだら猫』[4]):監督小倉八郎、1937年6月3日公開 - 松見金弥
- 『斬人斬馬屋敷』:監督山口哲平、1937年6月10日公開
- 『檜山大騒動』(『桧山大騒動』):監督小倉八郎、1937年6月17日公開 - 檜山奉行の息子
- 『煩悩流転』:監督小倉八郎、1937年7月22日公開
- 『忍術戸隠八剣士』:監督山口哲平、1937年8月12日公開[4]
- 唐獅子城:監督米沢正夫 - 遺児獅子丸(主演)[4]
- 『変幻羅生門』:監督大江秀夫、1937年9月30日公開 - 主演
- 『豪傑粂の平内』:監督米沢正夫、193年月日不明公開[4]
- 『雄叫び挺身体』:監督鈴木迪雄、1937年月日不明公開[4]
- 『豪傑秋月隼人』:監督西藤八耕、1937年月日不明公開[4]
- 『風雲五萬石』:監督末崎精二、1937年12月4日(12月8日[4]、1938年3月31日)公開 - 千脇志津馬(主演)
- 『初姿忍術道中双六』:監督山口哲平、1937年12月31日公開[4]
- 『忍術破り荒川熊蔵』:監督米沢正夫、1938年1月10日公開[4]
- 『神春やぐら音頭』:監督末崎精二、1938年1月20日(1月27日[4])公開 - 鳥越町の清吉
- 『剣乱三日月城』:監督末崎精二、1938年月日不明公開[4]
- 『忍術虎若丸』:監督米沢正夫、1938年10月13日公開 - 戸澤虎若丸(主演) ※解説版
- 透明騎手:監督末崎精二 - 布施左馬太 ※トーキー
- 『陣太郎笠』:監督山口哲平、1938年月日不明公開[4]
- 『怪侠鷲』:監督末崎精二、1938年11月3日公開 ※解説版
- 『忍術大進軍』:監督山口哲平、1938年12月31日公開 ※解説版[4]
- 『怪人豹』:監督大塚隆太、1939年1月22日公開 - 三輪由紀太郎 ※解説版
- 『忍術薩摩飛脚』:監督山口哲平、1939年2月15日公開 - 結城小四朗 ※解説版
東宝映画
[編集]全て製作は「東宝映画」、配給は「映画配給社」、以降全てトーキー、以降全て「隆野唯勝」名義である。
- 『ハワイ・マレー沖海戦』:監督山本嘉次郎、1942年12月3日公開 - 菊地少尉[7]
- 『あさぎり軍歌』:監督石田民三、1943年4月29日公開 - 国武真三
- 『熱風』:監督山本薩夫、1943年10月7日公開 - 工員舟木
- 『加藤隼戦闘隊』:監督山本嘉次郎、1944年3月9日公開 - 榎公平中尉(加藤部隊)
- 『三尺左吾平』:監督石田民三、1944年7月6日公開
戦後
[編集]- 『地下街24時間』:監督今井正・楠田清・関川秀雄、製作・配給東宝、1947年4月29日公開 - 床屋
- 『新馬鹿時代 后篇』(『新馬鹿時代 後篇』):監督山本嘉次郎、製作・配給東宝、1947年10月26日公開 - 白井
- 『女優』:監督衣笠貞之助、製作・配給東宝、1947年12月29日公開[5]
- 『戦慄』:監督関川秀雄、製作東横映画京都撮影所、配給東映、1950年2月26日公開 - 川村松夫
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『日本無声映画俳優名鑑』株式会社アーバン・コネクションズ、2005年、145頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、267-268頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『映画俳優事典 戦前日本篇』未来社、1994年、173-174頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar 『チャンバラ王国 極東』ワイズ出版、1998年、180-181頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『映画論叢 30』国書刊行会、2012年、93-95頁。
- ^ a b c d e f g h i 『日本映画人改名・改称事典』国書刊行会、2004年、96-97頁。
- ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 535, 「主要特撮作品配役リスト」
参考文献
[編集]- 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5。