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陳与義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陳與義から転送)

陳 与義(ちん よぎ、1091年 - 1139年)は、中国南宋初期の詩人。は去非。号は簡斎。陳希亮の曾孫。

経歴

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洛陽に生まれる。幼時より、よく詩を作ることができた。政和3年(1113年)に進士となる。開徳府教授から太学博士・符宝郎となるが、監陳留酒税に左遷された。汴京を侵略し高宗が南方へ逃れたときに、襄陽へと移るが、召されて兵部侍郎となり、紹興元年(1131年)に臨安に到着し中書舎人に掌内制を兼ねた。吏部侍郎・徽猷閣直学士から、湖州知州をへて給事中・顕謨閣直学士・提挙江州太平観を歴任。ふたたび中書舎人となり、翰林学士知制誥をへて、紹興8年(1138年)に参知政事となり大いに朝廷の綱紀を粛正した。同年の3月に高宗に従って建康へおもむき、翌年に臨安へもどると病を理由に資政殿学士・湖州知州に任命された。高宗は手厚く陳与義を見舞い、提挙臨安洞霄宮へと進められ、紹興9年(1139年)11月に没する。

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官職に就いてから北宋の滅亡にいたる十数年の詩のうち、七言絶句の連作「墨梅」の5首は徽宗皇帝の賞賛を得た。またこの作は朱熹の『語類』でも言及され、江西詩派中、黄庭堅の下、陳師道の上に位した。元来、杜甫を好んだが戦乱を避けて放浪するうちに環境の酷似のため、いっそう親近感が増した、と自ら認めている。蘇軾の大胆さ、黄庭堅の晦渋さを取らず、晩年の作はさらに唐詩の平明さに近づいている。詩集に500余篇を集めた『簡斎集』16巻[1]があり、また『宋名家詞』の中に『無住詞』1巻が収められている。

墨梅
粲粲江南萬玉妃 粲粲たる江南の萬玉の妃
別来幾度見春帰 別来 幾度か 春の帰るを見し
相逢京洛渾依旧 京洛に相逢て 渾て旧に依る
唯恨緇塵染素衣 唯だ恨む緇(くろ)き塵の 素衣を染むるを

脚注

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  1. ^ 近藤春雄『中国学芸大事典』大修館書店、1978年、102頁。ISBN 4469032018 

関連項目

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