陳与義
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(陳與義から転送)
陳 与義(ちん よぎ、1091年 - 1139年)は、中国南宋初期の詩人。字は去非。号は簡斎。陳希亮の曾孫。
経歴
[編集]洛陽に生まれる。幼時より、よく詩を作ることができた。政和3年(1113年)に進士となる。開徳府教授から太学博士・符宝郎となるが、監陳留酒税に左遷された。金が汴京を侵略し高宗が南方へ逃れたときに、襄陽へと移るが、召されて兵部侍郎となり、紹興元年(1131年)に臨安に到着し中書舎人に掌内制を兼ねた。吏部侍郎・徽猷閣直学士から、湖州知州をへて給事中・顕謨閣直学士・提挙江州太平観を歴任。ふたたび中書舎人となり、翰林学士・知制誥をへて、紹興8年(1138年)に参知政事となり大いに朝廷の綱紀を粛正した。同年の3月に高宗に従って建康へおもむき、翌年に臨安へもどると病を理由に資政殿学士・湖州知州に任命された。高宗は手厚く陳与義を見舞い、提挙臨安洞霄宮へと進められ、紹興9年(1139年)11月に没する。
詩
[編集]官職に就いてから北宋の滅亡にいたる十数年の詩のうち、七言絶句の連作「墨梅」の5首は徽宗皇帝の賞賛を得た。またこの作は朱熹の『語類』でも言及され、江西詩派中、黄庭堅の下、陳師道の上に位した。元来、杜甫を好んだが戦乱を避けて放浪するうちに環境の酷似のため、いっそう親近感が増した、と自ら認めている。蘇軾の大胆さ、黄庭堅の晦渋さを取らず、晩年の作はさらに唐詩の平明さに近づいている。詩集に500余篇を集めた『簡斎集』16巻[1]があり、また『宋名家詞』の中に『無住詞』1巻が収められている。
墨梅 | |
粲粲江南萬玉妃 | 粲粲たる江南の萬玉の妃 |
別来幾度見春帰 | 別来 幾度か 春の帰るを見し |
相逢京洛渾依旧 | 京洛に相逢て 渾て旧に依る |
唯恨緇塵染素衣 | 唯だ恨む緇(くろ)き塵の 素衣を染むるを |
脚注
[編集]- ^ 近藤春雄『中国学芸大事典』大修館書店、1978年、102頁。ISBN 4469032018。