コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

閻沢溥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
閻澤溥から転送)
閻 沢溥
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)
死去: 不詳[注 1]
出身地: 清の旗 直隷省天津府天津県
職業: 政治家・銀行家・実業家
各種表記
繁体字 閻澤溥
簡体字 阎泽溥
拼音 Yán Zépǔ
ラテン字 Yen Tze-p'u
和名表記: えん たくふ
発音転記: イエン ゾープー
テンプレートを表示

閻 沢溥(えん たくふ、1879年 - 没年不詳)は、中華民国の政治家・銀行家・実業家。庭瑞

事績

[編集]

最初は、洮南屯墾局総弁を務めた[1][2]。後に張作霖奉天派に属し、吉林黒竜江榷運局局長[3]奉天塩務局局長[2]山東賑務督弁を歴任した[3]

1927年民国16年)5月31日、閻沢溥は中日実業株式会社取締役に就任した[4]。翌月の6月20日、北京政府潘復内閣で財政部総長に特任された[3]。なお閻沢溥は、北京政府最後の財政部総長である。他にも全国道勝銀行清理処督弁と税務処督弁署理(代行)を兼任し、翌1928年(民国17年)3月5日には関税自主委員会委員にも特派された[3]。同年6月の張作霖敗北後に、閻も張に随従して奉天に引き返した。その途中、張が関東軍に爆殺されたが(張作霖爆殺事件)閻は難を逃れている。まもなく政界を離れ、実業に専念することになった[1][2]

1931年(民国20年)9月に満州事変(九・一八事変)が発生した後に、閻沢溥は奉天入りして辺業銀行[注 2]総裁に就任した[1][5][注 3]。ところが同年12月3日、関東軍司令官・本庄繁に閻が面会したところ、本庄にその態度を怪しまれて一時的に監禁されてしまった[6][注 4]。翌1932年満州中央銀行成立後に辺業銀行は統合・廃止されたため、有力銀行家としての地位を閻は失った[5]

ただしその後も、閻沢溥は実業家としての活動を継続しており、前述の中日実業取締役については1935年康徳2年)5月30日まで在任した[7]1938年康徳5年)9月発行の雑誌でも「民間の実業界に隠然重きをなしている」との記述が見受けられ[5]、昭和15年(1940年)刊行の『大衆人事録 第十三版 外地・満支・海外篇』(帝国秘密探偵社)「満洲」26頁でも閻の記述を確認できる。

1940年以降における閻沢溥の最終的な消息は不明である。なお昭和18年(1943年)刊行の『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』においては、閻の記述を確認できない。

注釈

[編集]
  1. ^ 徐主編(2007)、2648頁や(中華民国)財政部財政史料陳列室によれば、1932年に閻沢溥は日本軍により殺害された、としている。しかし、その後も日本側史料(『官報』含む)には閻沢溥の記述が散見されており、何らかの誤りと考えられる。
  2. ^ 「奉天辺業銀行」、「東三省辺業銀行」とも呼ばれる。
  3. ^ 中華民国財政部ホームページでは満洲事変前に辺業銀行総裁に就任、事変後に辞任、としているが、誤りと思われる。
  4. ^ 本庄繁により閻沢溥が一時監禁に至った理由や経緯は不明である。

出典

[編集]
  1. ^ a b c 徐主編(2007)、2648頁。
  2. ^ a b c 中華民国財政部ホームページ
  3. ^ a b c d 中華民国政府官職資料庫「姓名:閻澤溥」
  4. ^ 中日実業(1943)、附輯34頁。
  5. ^ a b c 樹下三仙「満洲国人実業家素描」『実業の世界』35巻10号臨時増刊、1938年9月18日、実業之世界社、142頁。
  6. ^ 「本庄繁日記」昭和6年12月4日記述(伊藤ほか編(1983)、165頁)。
  7. ^ 印刷局編『官報』昭和10年7月27日付録、9頁。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 「閻沢溥」(財政部財政史料陳列室・財政人物索引) 中華民国財政部ホームページ
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 伊藤隆ほか編『本庄繁日記 昭和5年1月~昭和8年12月 (近代日本史料選書 6-2)』山川出版社、1983年。 
  • 『中日実業株式会社三十年史』中日実業、1943年。 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
湯爾和
財政総長(署理)
1927年6月 - 1928年6月
次代
(廃止)