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關淳一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
関淳一から転送)
關 淳一
せき じゅんいち
關 淳一
生年月日 (1935-08-13) 1935年8月13日
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市
没年月日 (2024-06-09) 2024年6月9日(88歳没)
出身校 大阪市立大学医学部医学科
前職 大阪市立桃山市民病院副院長・第一内科長
大阪市環境保健局長
大阪市助役
大阪市長
日本WHO協会理事長
所属政党 無所属
称号 医学博士

大阪市旗 第17代 大阪市長
当選回数 2回
在任期間 2003年12月19日 - 2007年12月18日
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關 淳一(せき じゅんいち、關の字は新字体で「関 淳一」とも表記される、1935年昭和10年)8月13日[1] - 2024年(令和6年)6月9日)は、第17代大阪市長医学博士

大阪府大阪市出身。祖父は社会政策学者で第7代大阪市長の關一(ただし、出生前に一が死去したため、直接の面識はない)。

略歴

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経歴

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2期8年にわたって市長をつとめた磯村隆文の下で助役を務め、磯村の後継候補として2003年の市長選挙に日本共産党を除く各政党の相乗り推薦を得て出馬、元大阪城天守閣館長の渡辺武(日本共産党推薦)らを破り当選。就任当初、助役弁護士大平光代を起用し、異例の市役所外部からの人事として話題となった。

2004年以降、報道された大阪市職員厚遇問題に端を発する、市役所の体質への非難を受けて(詳細は大阪市の不祥事を参照)、上山信一ら外部有識者の助言を得て市政改革に取り組んだ。市の同和行政の不祥事に際しては、自身の環境保健局長と助役時代に芦原病院への無担保融資として46億円を決裁していたことが問題視された。2005年10月には、市政改革への信を問うために任期途中で突如辞任し、出直し選挙戦に自民党公明党の推薦を得て出馬。前衆議院議員(民主党)の辻恵や前大阪市会議員の姫野浄(日本共産党推薦)らを破り再選。なお、助役の一人として市政改革を推進していた大平は、この選挙前に辞任している。

任期中に取り組んだ主な施策は以下のとおりである。

2007年11月4日告示、18日に投開票が行われた大阪市長選挙に、3選を目指して出馬表明し、これまでと同様に自民党・公明党から推薦を受けた。しかし、市交通局の民営化方針をはじめとする關の市政改革の方向性に反発した両党の一部市議が、橋爪紳也[注 2]の支援へ傾いたため[3]支持を固めきれず、民主党国民新党が推薦する平松邦夫に敗れ、落選。以降は2024年に至るまで、關のような大阪市幹部職員出身の市長は誕生していない[2]

その後は政界を引退し、政治的な発言も暫く無かったが、2015年大阪市長選挙では、かつて市長選を争った平松邦夫と共に、柳本顕(自民党推薦、民主党・日本共産党自主支援)の支援を表明した[注 3]

2024年6月9日、死去[2]。88歳没。

その他

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  • 従来、釜ヶ崎などの日雇い労働者ホームレスなどは、釜ヶ崎解放会館などに便宜上の住所登録を行うことが黙認されていた(市当局は認知していなかったとされる)。しかし、2006年12月にこのことが表面化すると、2007年3月29日、彼らの住民票を抹消、公民権を剥奪した。統一地方選挙による、大阪市議選告示前日のことであった。その後、これまで登録を黙認していた職員を処分した。

脚注・出典

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注釈

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  1. ^ 關が提唱した市営地下鉄・市営バスの民営化は2018年に実現。
  2. ^ 大阪市立大学教授(2007年9月辞職)。關のアドバイザリーボード「元気で美しい大阪づくり有識者会議」のメンバーを務めるなど、これまでも大阪市政とのかかわりが深かった。のちに政党推薦のないまま市長選に立候補するが、落選。詳しくは当該項目を参照。
  3. ^ 柳本は大阪維新の会吉村洋文に敗れ落選し、衆議院議員に転じた。

関連項目

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