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関東孝雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
関東孝夫から転送)
関東 孝雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県白石市
生年月日 (1951-09-02) 1951年9月2日(73歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1975年 ドラフト6位
初出場 1976年7月24日
最終出場 1981年8月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1985 - 1988)

関東 孝雄(かんとう たかお、1951年9月2日 - )は、宮城県白石市[1]出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ1979年から1981年まで登録名「関東孝夫」。

来歴・人物

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仙台育英高では3年次の1969年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、仙台工業に引き分け再試合の末に敗退。卒業後は1970年日本通運浦和へ入社し、稲葉誠治監督や初岡栄治監督の指導を受ける。1975年都市対抗では電電関東に補強されて出場し、決勝の大昭和北海道戦ではエース・加藤英美から2試合連続となる本塁打を放ち優勝に貢献[2]

同年のドラフト6位で中日ドラゴンズに入団[1]。1年目の1976年から一軍で起用され、左の代打要員、内野のオールラウンドプレイヤーとして活躍。1978年5月に故障欠場した大島康徳の代役として、7月まで三塁を守るなど、自身最多の90試合出場を果たすが、1979年から故障もあって低迷。1980年10月8日ヤクルト戦(神宮)で尾花高夫から最初で最後の本塁打を放ち、1981年限りで現役を引退。

引退後は中日二軍守備コーチ[1]1985年 - 1988年)および前後にスカウトとして平沼定晴中村武志を担当。その後、読売ジャイアンツスカウトに就任して松井秀喜らを担当した。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1976 中日 26 40 38 2 11 2 1 0 15 6 0 0 0 0 2 0 0 12 0 .289 .325 .395 .720
1977 40 50 45 3 10 3 0 0 13 0 1 0 0 0 5 0 0 11 1 .222 .300 .289 .589
1978 90 157 143 15 34 4 0 0 38 9 1 2 2 0 11 0 1 33 2 .238 .297 .266 .563
1979 5 5 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 0 1 0 .000 .250 .000 .250
1980 18 51 50 2 7 2 0 1 12 4 0 1 1 0 0 0 0 12 1 .140 .140 .240 .380
1981 32 22 18 1 1 0 0 0 1 1 0 0 2 0 2 1 0 3 0 .056 .150 .056 .206
通算:6年 211 325 297 23 63 11 1 1 79 20 2 3 6 0 21 1 1 72 4 .212 .266 .266 .532

記録

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背番号

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  • 47 (1976年 - 1981年)
  • 83 (1985年 - 1988年)

登録名

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  • 関東 孝雄 (かんとう たかお、1976年 - 1978年、1985年 - 1988年)
  • 関東 孝夫 (かんとう たかお、1979年 - 1981年)

脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、178ページ
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目

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外部リンク

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