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長沢資祐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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長沢資祐
時代 江戸時代中期
生誕 正徳5年(1715年
死没 安永5年3月20日1776年5月7日
改名 資顕(初名)→資祐
別名 長澤資祐、通称:滋丸、要人
戒名 日桂
官位 従四位上土佐守壱岐守侍従
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川家重家治
氏族 外山家庶流長澤氏
父母 父:長沢資親
兄弟 資祐松下之郷
加藤嘉矩養女(加藤明喬娘)
養子:資倍
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長沢 資祐(ながさわ すけやす)は、江戸時代中期の高家旗本

略歴

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正徳5年(1715年)、長沢資親の子として誕生。

享保14年(1729年)9月28日、8代将軍・徳川吉宗に始めて拝謁し、表高家に列する。延享4年(1747年)3月9日より父の務を見習い、同年7月29日従五位下侍従土佐守に叙任する。寛延元年(1748年)12月10日高家に列し、寛延3年(1750年)、父の死に伴って8月3日に家督を継ぐ。

寛延4年(1751年)7月30日、徳川吉宗の死後の贈官を謝する使いとして京に赴く。宝暦8年(1758年)7月18日、若宮(後の後桃園天皇)の生誕を祝う使いとして京に赴き、9月9日従四位下に昇る。宝暦12年(1762年)、桃園天皇の崩御による法会のため、7月25日に仰せにより京に赴く。

明和3年(1766年)10代将軍・徳川家治の元服のため、仰せにより日光山に至る。明和4年(1767年)9月1日肝煎となる。明和5年(1768年)1月15日、英仁親王(後の後桃園天皇)の立太子宣下により松平忠刻に随って京に上り、3月6日に参内し禁裏より正恒の太刀を給い、4月9日従四位上に昇る。

安永5年(1776年)3月20日死去、享年62。

家督は養子・資倍旗本寄合席赤松恭富の次男)が継いだ。

出典

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先代
長沢資親
高家長沢氏
2代
次代
長沢資倍