長松幹
長松 幹(ながまつ つかさ[1] / みき[2]、1834年2月9日〈天保5年1月1日[2]〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日[3])は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固[4]。通称・大蔵、文助、文輔[4]。号・秋琴[4]。
経歴
[編集]周防国吉敷郡矢原村(現山口市矢原)で医者・長松玄厚の長男として生まれる[4]。大田稲香の指導を受け[4]、嘉永6年(1853年)京都に遊学し、山本読書室に入り山本亡羊から本草学を学ぶ[5]。安政5年(1858年)以降、久坂玄瑞らと国事に奔走[4][6]。元治元年(1864年)帰藩し右筆に登用され、その後、儒役雇、雇医員を経て、編輯局で尊王事績の編集に従事[4]。鴻城隊に加わり、戊辰戦争中は軍中日誌を担当した[7]。
明治維新後、新政府に出仕し、慶応4年閏4月23日(1868年6月13日)御雇・議政官史官試補、翌月には徴士議政官史官に任じられた[2]。明治2年(1869年)明治天皇の東幸に供奉、以後行政官史官、太政官大史、同少弁、函館軍功賞典取調掛、太政官六等出仕、同五等出仕、同正院歴史課長、修史局長、一等修撰兼修史局長、一等編修官、修史館監事などを歴任し[2]、『復古記』『明治史要』などの官撰史書の編纂に従事[4][6][7]。
1884年9月4日、元老院議官に就任[2]。1888年2月17日、高等法院予備裁判官を仰せ付けられた[2]。1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]。1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[8]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられ[9]、死去するまで在任した[3]。
栄典
[編集]著作
[編集]- 平塚真宝編『秋錦山房詩鈔』平塚真宝、1882年。
- 長松篤棐編『秋琴遺響』長松篤棐、1904年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、243頁。
- ^ a b c d e f g 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』329-332頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』148頁。
- ^ a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』706頁。
- ^ 『忘れられた植物学者』12-13頁。
- ^ a b 『幕末維新大人名事典』下巻、207-208頁。
- ^ a b 『明治過去帳』687-688頁。
- ^ 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
- ^ 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
- ^ 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
- ^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『忘れられた植物学者』8頁。
- ^ 『忘れられた植物学者』21頁。
参考文献
[編集]- 国立公文書館所蔵「長松幹」職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
- 増田芳雄『忘れられた植物学者 長松篤棐の華麗な転身』中公新書、1987年。
公職 | ||
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先代 小松彰 正院歴史課長 |
正院修史局長 1875年 - 1877年 正院歴史課長 1873年 - 1875年 |
次代 重野安繹 修史館編修副長官 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 長松(幹)家初代 1896年 - 1903年 |
次代 長松篤棐 |