長崎電気軌道360形電車
長崎電気軌道360形電車 370形電車 | |
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桜町付近を走行する370形376 ツーマン・非冷房時代の1966年頃に撮影 | |
基本情報 | |
運用者 | 長崎電気軌道 |
製造所 | 日本車輛製造[1][2] |
製造年 |
360形:1961年[1] 370形:1962年[2] |
製造数 |
360形:7両(361 - 367) 370形:7両(371 - 377)[1][2] |
主要諸元 | |
軌間 | 1,435 mm(標準軌) |
電気方式 | 直流600 V[3](架空電車線方式) |
車両定員 |
360形:82人(座席30人)[4] 370形:80人(座席28人) [4] |
自重 | 15.0 t[4] |
最大寸法 (長・幅・高) | 11,000 × 2,260 × 3,830 mm[4] |
台車 |
360形:ナニワ工機 NK-25[4] 370形:日本車輛 NS-17[4] |
主電動機 |
直流直巻電動機[4] 日本車輛 SS-50[1][2] |
主電動機出力 | 38 kW×2[3] |
歯車比 | 59:14[5] |
制御方式 | 直接制御[3] |
制御装置 | KR-8[3] |
制動装置 | 直通ブレーキ SM-3、電気[5] |
備考 | 各諸元は2016年現在 |
長崎電気軌道360形電車(ながさきでんききどう360かたでんしゃ)は、1961年(昭和36年)に登場した長崎電気軌道の路面電車車両である。
本記事では、360形電車の増備形式で、外観・性能がほぼ同一の370形電車(370かたでんしゃ)についても記述する。
概要
[編集]老朽化が進行していた木造の2軸単車、および明治・大正期製造の木造ボギー車である160・170形の置き換えを目的として登場した、全金属製の2軸ボギー車で、1961年(昭和36年)に360形7両、翌1962年(昭和37年)に370形7両が製造された[6][7]。
計画当初は、1961年からの3か年に各年7両、合計で21両の増備が計画されていたものの、同社の経営悪化により1963年(昭和38年)に予定されていた7両の新造は実現しなかった[8][9]。残存した木造ボギー車、160・170形の置き換えは1966年(昭和41年)登場の500形や600・700形といった譲渡車の入線で達成されている[10]。
設計には鉄道愛好家の長崎電気軌道社員が携わったことから、方向転換の不要なZ型パンタグラフ、乗り心地の良いコイルばね台車、前中扉の窓配置、蛍光灯の室内灯など、いずれも同社の電車では初めての新機軸を盛り込んだ、斬新なものになった[9][7]。
以下、新製時における360・370形両形式について記述する。
360形
[編集]1961年(昭和36年)11月に日本車輌製造で7両が製造された。形式名は製造年の和暦である昭和36年に合わせて「360形」となった[6]。
日車提案の設計図面では、在来車の300形を全金属製車体とし、張り上げ屋根にしたスタイルであった[11]が、乗車扉を降車扉方向に寄せた前中扉の窓配置(D4D3)とした[11][12]。なお、11メートルと短い車体長を少しでもスマートに見せるために、扉にかかる部分以外の床下機器に覆いを設けていない[13]。屋根肩部はRがきつく設計され、張り上げ屋根と相まって丸みが強く強調されたデザインとなった[14] 正面窓配置は、西鉄軌道線の1000形を元に[14]、中央の窓の寸法を車体幅に合わせて縮小したもので[15]、正面中央の窓はHゴム支持による固定式、左右の窓はアルミサッシの下降式となっている。 正面の行先表示器は都電に準じた、在来車と比較してやや大型のものが採用され視認性が向上した[15]。また、行先表示器の左右にはカバー付きの通風孔が設けられた[15]。
側面窓配置やデザインは、広島電鉄の2000形を参考としつつ、窓枠にはアルミサッシを採用した[15]。窓寸法も設計に支障が出ない限り大きく取られている(幅950ミリ)[11]。
制御器や主電動機等の主要機器は日車製で、台車はナニワ工機製のコイルばね台車「NK-25」が採用された[6]。
370形
[編集]1962(昭和37年)に日本車輛で7両が製造された。形式名は360形と同様、製造年の和暦である昭和37年に合わせて「370形」となった[8]。
前年に登場した360形の増備車としての位置付けで、基本的な車体構造や性能も準じているが、360形同士で発生した追突事故(後述)の経験から、バンパーや運転台部分の台枠が強化された[8]。 360形で固定式とした正面中央の窓は通気が悪かったことから、本形式では窓下に通風孔が設けられた[8]。正面行先表示器の上下寸法は360形より拡大され、その左右には尾灯が新たに設けられている[8]。
台車は新たに日車製のコイルばね台車「NS-17」となり[8][14]、その他、排障器や雨樋の形状、屋根上のベンチレーター配置などが360形から変更された[8]。
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ツーマン・非冷房時代の360形365号(1966年頃)
行先表示器の左右に通風孔が設けられ、正面中央の窓は固定窓 -
ワンマン化改造・冷房設置後の360形362号
通風孔は塞がれ、正面中央の窓は一部開閉式となった -
ワンマン化改造・冷房設置後の370形374号
360形と異なり尾灯は行先表示器の左右に設けられている
新大工町における追突事故
[編集]360形の導入間もない1962年(昭和37年)7月8日、蛍茶屋車庫を出庫中の360形363号が無人で逸走、新大工町付近で先行の360形365号に追突し死傷者12名を出す惨事となった[17]。 事故の当該車両は同年9月に入線の370形と入れ替わる形で日本車輛に回送され修理が行われたが、この際両車の行先方向幕が370形と同寸法のものに交換されている[17]。
改造
[編集]ワンマン化改造
[編集]1968年(昭和43年)の370形373号を皮切りに、1977年(昭和52年)までに全車への改造が完了した。改造ではミラーや自動ドア化、放送機器の設置、正面中央窓の一部開閉化、正面左右窓の一部固定化、通風孔の廃止等が実施されている[9]。また、側面行先表示器は使用停止となった[9]。
冷房装置の設置
[編集]1981年(昭和56年)、370形372号に2000形を除いた在来車として初めて冷房装置が設置された。この冷房装置は長崎に拠点を置く三菱電機が開発したもの(CU-77形)で、372号への搭載は現車試験という扱いであったが、結果が良好であったことから1982年(昭和56年)登場の1200形より本格的に採用され、他形式にも普及した[9]。非冷房で残っていた各車も1983年(昭和58年)から翌年にかけて全車に冷房装置が搭載され、同時に補助電源装置がMGからSIVに転換されている[9]。
行先表示器の大型化(360形)・自動化
[編集]1985年(昭和60年)には360形の正面行先表示器が自動化・大型化(高さは370形に準じる)され、同時に使用停止となっていた側面行先表示器も復活した[9]。後に370形も同様の改造を施されている。
1980年代中頃には370形の1、2両にFMチューナーが搭載され、車内でFMラジオが流されていた[9]。
運用と現状
[編集]2019年(平成31年)4月現在、一般営業用として360形7両(361 - 367)、370形6両(371 - 374・ 376・377)の計13両が在籍している[18]。370形375号は2019年3月末付で廃車となった[19]。
371形371・372号は1964年(昭和39年)に日本の路面電車として初めて、車体全体を広告とした全面広告車となった[9]。 2019年現在も、360・370形共に同社のカラー電車Aタイプとして全面広告の対象となっている[20]。
2007年(平成19年)5月と2015年(平成27年)10月に370形375号が、2016年(平成28年)6月に360形362号が公会堂前(現・市民会館)電停付近のポイントで脱線事故を起こしている [21]。
車歴表
[編集]360形
[編集]車両番号 | 製造年月 | ワンマン化改造 | 暖房設置 | 冷房設置 | 備考 |
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361 | 1961年11月[1] | 1969年 | 1983年 | 1983年 | |
362 | 公会堂前付近における脱線事故当該車(2016年6月2日)[21] | ||||
363 | 新大工町における追突事故当該車(1962年7月8日)[22] | ||||
364 | |||||
365 | 新大工町における追突事故当該車(1962年7月8日)[22] | ||||
366 | |||||
367 | 1977年 | 1984年 |
370形
[編集]車両番号 | 製造年月 | ワンマン化改造 | 暖房設置 | 冷房設置 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
371 | 1962年9月[1][2] | 1975年 | 1980年 | 1983年 | 日本初の全面広告車(1964年) |
372 | 1977年 | 1981年 | 日本初の全面広告車(1964年)、試作冷房改造(1981年) | ||
373 | 1975年 | 1978年 | 1983年 | ||
374 | 1980年 | ||||
375 | 1977年 | 公会堂前 - 諏訪神社前における脱線事故当該車(2007年5月24日、2015年10月11日)[21] 2019年3月31日付で除籍[19]。 | |||
376 | 1968年 | ||||
377 | 1977年 | 1978年 |
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 100年史, p. 149.
- ^ a b c d e 100年史, p. 150.
- ^ a b c d 100年史, p. 153.
- ^ a b c d e f g 100年史, p. 152.
- ^ a b 100年史, p. 157.
- ^ a b c 崎戸87, p. 84.
- ^ a b 田栗宮川00, p. 184.
- ^ a b c d e f g 崎戸87, p. 90.
- ^ a b c d e f g h i 崎戸89, p. 112.
- ^ 田栗00, p. 106.
- ^ a b c 田栗宮川00, p. 111.
- ^ 崎戸89, p. 113.
- ^ 田栗00, p. 107.
- ^ a b c 田栗05, p. 125.
- ^ a b c d 崎戸87, p. 88.
- ^ 越智86, p. 106.
- ^ a b 崎戸87, p. 89.
- ^ “会社概要” (PDF). 長崎電気軌道株式会社 (2018年). 2018年8月17日閲覧。
- ^ a b 私鉄編成表19, p. 197.
- ^ “路面電車広告メディアガイド カラー電車”. 長崎電気軌道株式会社. 2019年7月23日閲覧。
- ^ a b c “長崎電気軌道株式会社 車両脱線事故 調査進捗状況報告” (PDF). 国土交通省運輸安全委員会 (2016年11月24日). 2016年12月19日閲覧。
- ^ a b 50年史, p. 174.
参考文献・資料
[編集]- 『五十年史』1967年。
- 『鉄道ピクトリアル』1986年5月号 通巻463号 電気車研究会、1986年。
- 越智昭、1986、「長崎電気軌道 車両(旅客車)の変遷」 pp. 103-107
- 『長崎の路面電車』長崎出版文化協会、1987年。
- 『鉄道ピクトリアル』1989年3月号臨時増刊 通巻509号「<特集>九州・四国・北海道地方のローカル私鉄」電気車研究会、1989年。
- 崎戸秀樹「長崎電気軌道」 pp. 107-114
- 『鉄道ピクトリアル』2000年7月臨時増刊号 通巻688号「<特集>路面電車~LRT」電気車研究会、2000年。
- 田栗優一「長崎電気軌道に勤務した頃を振り返る」 pp. 104-108
- 梨森武志「長崎電気軌道」 pp. 240-244
- 『長崎のチンチン電車』葦書房、2000年。ISBN 4751207644。
- 『長崎「電車」が走る街今昔』JTBパブリッシング、2005年。ISBN 4533059872。
- 『長崎電気軌道100年史』2016年。
- ジェーアールアール『私鉄車両編成表2019』交通新聞社、2019年。ISBN 9784330982199。
外部リンク
[編集]- 長崎電気軌道公式ウェブサイト