金鑵城
金鑵城 (兵庫県) | |
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別名 | 金釣瓶城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 中村氏 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 中村氏、別府氏、別所氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 櫓、土塁、堀切、木橋、冠木門 |
指定文化財 | 小野市指定史跡[1] |
位置 | 北緯34度52分41.8秒 東経134度54分25.9秒 / 北緯34.878278度 東経134.907194度座標: 北緯34度52分41.8秒 東経134度54分25.9秒 / 北緯34.878278度 東経134.907194度 |
地図 |
金鑵城(かなつるべじょう)は、兵庫県小野市昭和町字ウットウロにあった日本の城[2]。城跡は1996年(平成8年)3月1日付で小野市指定史跡に指定されている[1]。また、1999年(平成11年)4月に開園した「夢の森公園」内の「金鑵城遺跡広場」として、2000年(平成12年)8月に整備されている[3][4]。
概要
[編集]室町時代から戦国時代に播磨の守護職であった赤松氏の家臣・中村氏が築城したと伝えられている。播磨中村氏は、小野市域にあたる西河合の地を領有し、同じく赤松氏に仕える別府氏と勢力を争ったが、天文年間(1532年-1555年)に別府九郎に滅ぼされたと伝えられる。最終的にはその別府氏も別所氏により滅ぼされたという[5]。
当城は遠望が利き小野市内を一望できる青野ヶ原台地東端の突出部に築かれた中世の山城で、城の北側は東の低地から谷が切り込み、東と南側は低地に面した断崖で、南西側のみ尾根筋が台地に接続する[5]。『日本城郭大系』刊行(1981年)時点では「天険の地ではあるが、特に遺構らしいものは確認できない。」としているが[5]、1992年(平成4年)から1994年(平成6年)にかけての発掘調査により城跡の全貌がほぼ明らかにされた[1]。
城域は主郭と西郭にわかれ、その間に空堀である堀切(幅20メートル、深さ9メートル)を持ち、両郭の往来のために木橋が架けられていた。主郭入口の虎口には門が2つあり、1つ目の門から2つ目門までの道は直線ではなく、直角に折れるよう造られ、侵入者への攻撃の場とした。
主郭は東西50メートル×南北80メートルの規模を持ち、4棟の建物跡(内3棟は礎石を持つ)があり、居城として使用されていた。周囲は土塁で囲まれており、西側の土塁は幅9メートル×高さ2メートル以上で、上部には柵が設けられていた[6][3][4]。また城内に深い井戸があり、その水を金属の釣瓶(つるべ)で汲み上げていたことから「金鑵城」と命名されたと伝承される[6]。このほか、発掘調査により城跡の包含層より下層からは弥生時代の竪穴建物跡6棟が検出されており、遺跡名および史跡指定名称としては「金鑵城遺跡」と命名されている[3][4][2]。
現在は金鑵城遺跡広場として整備され、園内に櫓のほか、2つ目の城門が冠木門として復元されている。
所在地
[編集]兵庫県小野市昭和町441-6
最寄駅
[編集]周辺史跡・寺社
[編集]周辺施設
[編集]周辺道路
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 「金鑵城遺跡(市指定)」小野市公式HP
- ^ a b 小野市教育委員会 2015
- ^ a b c “小野市観光協公式サイト - 金鑵城遺跡広場 / 夢の森公園”. 2018年12月13日閲覧。
- ^ a b c “神戸電鉄 - 金鑵城遺跡広場”. 2018年12月13日閲覧。
- ^ a b c 平井ほか 1981 p.391
- ^ a b “小野市考古館 - 夢の森公園 金鑵城遺跡広場”. 2018年12月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 平井聖ほか 1981「金鑵城」『日本城郭大系』〈第12巻〉大阪・兵庫 新人物往来社 p.391
- 小野市史編纂専門委員会編 1996-2010『小野市史』全8巻 小野市
- 小野市教育委員会 2015『金鑵城遺跡発掘調査報告書』小野市文化財調査報告34