コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

金沢次男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金澤次男から転送)
金沢 次男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県常陸太田市
生年月日 (1958-12-18) 1958年12月18日(66歳)
身長
体重
186 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1981年 ドラフト5位
初出場 1982年4月4日
最終出場 1995年8月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

金沢 次男(かなざわ つぎお、1958年12月18日 - )は、茨城県常陸太田市出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

[編集]

中学1年次でゴルフを始め、当初はプロゴルファー志望だったが、佐竹高在学時にその運動能力を野球部顧問に認められ、野球を始める。

高校卒業後は、社会人野球三菱自動車川崎に進み、1981年都市対抗野球に控え投手として出場したが、先発は福家雅明が務めて登板はなかった。

1981年のプロ野球ドラフト会議横浜大洋ホエールズから5位指名を受け入団。

1982年は、プロ初登板から5月2日の対ヤクルト戦まで26回1/3連続イニング無失点を記録。この試合では4回表二死満塁の場面で救援登板し無失点に抑えるも5回表先頭の角富士夫に3号本塁打を打たれプロ初失点となった[1]。速球と大きく曲がり落ちるカーブを武器に、1983年1984年と2年連続10勝を挙げるなど、遠藤一彦に次ぐ2番手の先発投手として活躍。監督の関根潤三から、口元から銀歯が見えたのと名前の『次男』から「銀次」のあだ名をつけられた[2]。しかし翌年の1983年10月22日、後楽園球場での巨人戦で堀内恒夫の現役最終打席となる8回、堀内に本塁打を打たれた。堀内から試合後に「カラ振りしようと思ったのに、ホームランになっちゃって。相手はこれからの投手なのに悪いことしたかな」[3]とコメントされている。

1986年大畑徹と共に木田勇高橋正巳との交換トレードで日本ハムファイターズに移籍。1986年にも10勝を記録する。

1989年は1勝に終わり12月6日、球団から「他球団にトレードを打診したが話がまとまらなかった」として戦力外通告を受ける[4]。弱体の投手陣のヤクルトスワローズから獲得の意思があり、無償トレードでの移籍が決まった[5]。大洋時代に続いて近藤貞雄監督での1年目終了時に移籍となっている。

1990年、プロ入り初めて先発なしのリリーフ専任となったが、ショート、ロングリリーフ問わない登板やセーブシチュエーションでも登板し自己最多の5セーブを記録した。

1991年は僅か4試合の登板でプロ入りして初となる未勝利に終わる。このころサイドスローに転向する。

1992年1993年はヤクルトの2年連続優勝に貢献。殆ど中継ぎだったが、ローテーションの谷間で先発するなど随所で存在感を発揮。日本シリーズにも登板した。大洋、日本ハム時代は優しい性格をカバーする為に、パンチパーマに口ひげという風貌だったが、ヤクルトではひげを生やすのが禁止されていたために剃り落とし、眼鏡をかけていた。

1992年8月9日深夜に自宅近くをランニング中に痴漢を発見し、その場で取り押さえ警察から感謝状をもらったことがある。

1995年千葉ロッテマリーンズに移籍し、同年限りで現役を引退。日本ハムから勝利を挙げれば史上3人目の全球団勝利だった。8月18日にはその日本ハム戦に先発の機会を与えられ、初回に援護点をもらったが、次の回から降板する4回まで全て失点し敗戦投手となった。 武器はスライダー、カーブ、シュート、フォーク、チェンジアップ。 引退後はゴルフ界に転身し、レッスンプロとなった。

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1982 大洋 24 5 0 0 0 5 4 0 -- .556 311 73.0 60 11 35 6 3 53 4 0 33 32 3.95 1.30
1983 37 28 4 1 0 10 12 2 -- .455 805 182.1 188 33 85 6 7 118 1 1 108 100 4.94 1.50
1984 30 25 7 2 0 10 11 0 -- .476 790 185.1 184 25 62 8 7 123 4 0 81 79 3.84 1.33
1985 23 14 0 0 0 3 7 0 -- .300 333 70.2 78 19 41 1 2 43 4 0 60 59 7.51 1.68
1986 日本ハム 27 26 7 2 4 10 9 0 -- .526 727 178.1 171 26 38 0 3 122 8 1 75 75 3.79 1.17
1987 23 16 2 0 1 6 6 0 -- .500 455 103.1 125 23 23 0 2 70 4 0 58 57 4.96 1.43
1988 21 16 2 0 0 4 7 0 -- .364 434 103.1 106 10 30 1 2 73 3 0 46 43 3.75 1.32
1989 28 5 0 0 0 1 2 0 -- .333 358 86.2 81 10 22 0 4 58 2 0 39 32 3.32 1.19
1990 ヤクルト 37 0 0 0 0 6 7 5 -- .462 308 74.0 60 12 33 4 0 69 1 0 33 30 3.65 1.26
1991 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 24 5.1 8 1 0 0 0 6 0 0 4 4 6.75 1.50
1992 40 6 0 0 0 3 2 0 -- .600 322 73.2 65 6 31 0 9 74 4 1 37 28 3.42 1.30
1993 31 1 0 0 0 1 1 0 -- .500 172 42.0 34 7 11 2 1 39 1 0 16 13 2.79 1.07
1994 23 2 0 0 0 1 1 0 -- .500 136 30.0 34 5 14 0 2 32 0 0 16 14 4.20 1.60
1995 ロッテ 19 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 132 31.0 22 2 14 1 5 26 3 0 14 13 3.77 1.16
通算:14年 367 145 22 5 5 60 70 7 -- .462 5307 1239.0 1216 190 439 29 47 906 39 3 620 579 4.21 1.34
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

[編集]
初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1990年4月29日、対読売ジャイアンツ4回戦(明治神宮野球場)、5回表2死目に槙原寛己を三振で達成

背番号

[編集]
  • 49 (1982年 - 1983年)
  • 19 (1984年 - 1985年)
  • 20 (1986年 - 1989年)
  • 41 (1990年 - 1994年)
  • 46 (1995年)

出典

[編集]
  1. ^ 読売新聞1982年5月3日17面「無失点とぎれたが ルーキー金沢3勝」読売新聞縮刷版1982年5月p85
  2. ^ 別冊ベースボール「よみがえる1980年代のプロ野球 PART10 1984年編」(2020年9月刊)p.68
  3. ^ 読売新聞1983年10月23日23面「団塊の世代 ヒーロー堀内」読売新聞縮刷版1983年10月p949
  4. ^ 日刊スポーツ1989年12月6日3面「日本ハム金沢"クビ"通告」
  5. ^ 日刊スポーツ1989年12月14日3面「日本ハム金沢、ヤクルト移籍が決定」

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]