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金山城 (陸奥国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金山要害から転送)
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金山城
宮城県
本丸石垣
本丸石垣
別名 寝牛城、臥牛城
城郭構造 山城
築城主 相馬氏
築城年 1564年(永禄7年)または1565年(永禄8年)[1]
遺構 曲輪、土塁、石垣
指定文化財 丸森町指定史跡[2]
位置 北緯37度53分49.3秒 東経140度48分09.8秒 / 北緯37.897028度 東経140.802722度 / 37.897028; 140.802722座標: 北緯37度53分49.3秒 東経140度48分09.8秒 / 北緯37.897028度 東経140.802722度 / 37.897028; 140.802722
地図
金山城の位置(宮城県内)
金山城
金山城
金山城の位置(日本内)
金山城
金山城
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金山城(かねやまじょう)、または寝牛城臥牛城[3]は、宮城県伊具郡(陸奥国伊具郡丸森町金山にあった日本の城仙台藩における元和の一国一城令後の21要害の一つで、後に金山要害と称した。丸森町指定史跡[2]

概要

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金山城は標高117メートルの「お舘山」山頂にある山城で、1564年(永禄7年)[3]または65年(永禄8年)[1]相馬氏の家臣井戸川将監藤橋胤泰が築城したと言われる。その後伊達氏相馬氏の争奪戦が展開された[3]

天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。

そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。江戸時代は元和の一国一城令により金山要害と称し、引き続き中島氏明治維新まで居住した。

明治元年(1868年戊辰戦争後に一度南部氏白石藩に転封され、補修がされたが、後に幕末に勤皇派としていた旧城主の中島氏に払い下げられた。

現在は、「お舘山公園」となっており、本丸跡には1588年(天正16年)ごろ築造とされる石垣が残り[3]、往時の面影を伝えている。

脚注

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  1. ^ a b 「金山まちづくりセンター」丸森町公式HP
  2. ^ a b 「丸森町の文化財」丸森町公式HP
  3. ^ a b c d 「地域案内 金山」丸森町公式HP

関連項目

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