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野澤吉兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野沢吉兵衛から転送)

野澤 吉兵衛(のざわ きちべえ)は、文楽義太夫節三味線方の名跡

初代

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(生年不詳 - 文化12年10月12日1815年11月12日))本名は丹波屋吉兵衛。

京都西陣の生まれ。2代目野澤喜八郎の門弟で2代目野澤吉五郎1788年5月に吉兵衛となる。京都中心に活躍。2代目竹本内匠太夫の相三味線で活躍。1813年の御霊芝居の豊竹筑前少掾の五十回忌「女鉢木」を弾いたのを最後に引退。

あだ名を「松屋町」。

2代目

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(生年不詳 - 嘉永6年6月29日1853年8月3日))本名は木村忠兵衛。

京都の生まれ。初代の門弟の初代野澤吉彌1827年以降に2代目吉兵衛を襲名。美濃関で客死したという。

3代目

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文政4年(1821年) - 文久2年7月27日1862年8月22日))本名は佐田屋市治郎。

大坂の生まれ。初代竹本越路大夫鶴澤勝鳳)の子。14歳で鶴澤文三に入門し鶴澤市次郎を名乗る。2代目勝鳳を経て1840年に3代目吉兵衛を襲名。

あだ名を「鬼吉兵衛」。

4代目

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天保元年(1830年) - 明治14年(1881年12月30日)本名は鈴木東三郎。

名古屋の生まれ。3代目の弟子。鶴澤虎造野澤勝市野澤吉作、4代目吉彌を経て1863年に4代目吉兵衛を襲名。5代目竹本春太夫の相手を務めた。1872年5月に引退。

5代目

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天保12年1月3日1841年1月25日) - 明治44年(1911年2月21日)本名は鈴木繁造。

讃岐国(現在の香川県)の生まれ、3代目の弟子で野澤吉次郎1862年文久2年)に4代目の門下になり、1865年に5代目吉彌を襲名。のちに初代野澤錦糸を経て1883年(明治16年)に5代目吉兵衛を襲名。1904年に同業者の看板の大きさで不満を抱き引退。

6代目

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慶応4年9月6日1868年10月21日) - 大正13年(1924年6月4日)本名は松井福松。

大阪市の生まれ、1877年(明治10年)に6代目吉彌の弟子で野澤兵三。1884年(明治17年)に3代目野澤吉三郎に改名。1886年(明治19年)に5代目野澤吉兵衞の門下になる。1890年(明治23年)に7代目吉彌を襲名。1907年(明治40年)に6代目吉兵衛を襲名。世話物を得意とし3代目竹本越路大夫の相三味線を務めた。野澤会を結成し後進指導に力を入れた。

7代目

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(明治12年(1879年11月22日 - 昭和17年(1942年4月23日)本名は竹中卯之助。俗称を「夙川」

大阪西横堀の生まれ、1890年(明治23年)に3代目吉三郎(後の6代目吉兵衛)に入門し野澤兵市を名乗る。1891年(明治24年)に彦六座へ出演。(明治41年)に4代目吉三郎を襲名。1926年大正15年)に7代目吉兵衛を襲名。1905年(明治38年)以降引退する1937年(昭和12年)まで3代目竹本伊達太夫(後の6代目竹本土佐太夫)の相三味線を務める。1937年に引退。

8代目

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(明治21年(1888年9月20日 - 昭和25年(1950年9月20日)本名は真次恒三。

京都四条の生まれ、1896年(明治29年)6代目野澤喜八郎に入門し、野澤常吉から野澤常造を名乗る。1907年(明治40年)に3代目野澤兵内と改名。1915年(大正4年)に9代目野澤吉五郎を襲名。1946年(昭和23年)に8代目吉兵衛を襲名。

9代目

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(明治36年(1903年6月13日 - 昭和55年(1980年7月9日)本名は川端陸三。

大阪北区の生まれ、1914年(大正3年)3月に7代目喜八郎に入門し、野澤喜代之助を名乗る。1917年(大正6年)に初舞台。7代目から8代目の譲り弟子となり、1943年(昭和18年)2月に5代目吉三郎を襲名。1963年(昭和38年)12月に9代目吉兵衛を襲名。4代目竹本津大夫の相三味線を長らく務める。1979年(昭和54年)に芸術選奨文部大臣賞受賞。

外部リンク

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