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大木戸森之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
達ヶ関森之助から転送)
大木戸 森之助(達ヶ関 森之助)
基礎情報
四股名 大木戸 森之助
本名 不明
生年月日 不明
没年月日 1812年1月24日(旧暦12月11日
出身 陸奥国(現:宮城県
身長 不明
体重 不明
所属部屋 伊勢ノ海部屋[1]
成績
現在の番付 引退
最高位大関
幕内戦歴 10勝7敗1預26休(5場所)
優勝 優勝相当成績1回
データ
初土俵 1804年3月場所(看板大関
入幕 1804年3月場所
引退 1811年11月場所
備考
2019年6月30日現在

大木戸 森之助(おおきど もりのすけ、? - 1812年文化8年)1月24日(旧暦12月11日))は、陸奥国(現:宮城県)出身[2]の元大相撲力士。本名は不明。

来歴

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1804年(文化元年)3月場所において仙台藩の抱え力士となり、看板大関として初土俵を踏む[3]。当時の四股名吹𨺜 寅右エ門(ふきがえし とらえもん)で、この四股名だった最初の2年間は土俵入りのみで相撲は取らなかった。その後、大木戸へ改名して初めて相撲を取った1806年(文化3年)2月場所では文化の大火によって5日間で打ち切られたが、5戦全勝の優勝相当成績を挙げた。この場所では柏戸利助が東関脇玉垣額之助が西関脇でそれぞれ5戦全勝を挙げているが、番付上位制度により大木戸が優勝相当成績とされている。しかし、なぜか同年10月場所では東関脇に番付を降下させられ、4勝1敗5休の成績を挙げるが、1807年(文化4年)2月場所では東前頭2枚目まで降格させられた。大木戸はこの場所を全休し、その後も成績不振で勝ち越しは1場所も無かった(1810年(文化7年)10月場所で4勝4敗だった他は全て負け越し[4]

最終出場となった1811年(文化8年)11月場所では二段目6枚目まで陥落すると0勝7敗3休に終わり[5]1812年12月11日に現役のまま死去した。初土俵から僅か7年の短い土俵人生で、勝敗数に関係無く藩の意向で番付が変動した、この時代の番付制度の最大の犠牲者だった。

出典

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  1. ^ 秀ノ山部屋という説もある。
  2. ^ 九州出身という説もある。
  3. ^ 大関伝 看板大関相撲評論家之頁のHP。87人目に大関・大木戸森之助の名がある。
  4. ^ ただし、江戸時代ではたとえ負け越しが続いてもの意向で番付が上がるケースも少なくなかった。
  5. ^ 文化8年冬場所大相撲星取表のHP。

関連項目

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