大木戸森之助
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(達ヶ関森之助から転送)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 大木戸 森之助 | |||
本名 | 不明 | |||
生年月日 | 不明 | |||
没年月日 | 1812年1月24日(旧暦12月11日) | |||
出身 | 陸奥国(現:宮城県) | |||
身長 | 不明 | |||
体重 | 不明 | |||
所属部屋 | 伊勢ノ海部屋[1] | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東大関 | |||
幕内戦歴 | 10勝7敗1預26休(5場所) | |||
優勝 | 優勝相当成績1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1804年3月場所(看板大関) | |||
入幕 | 1804年3月場所 | |||
引退 | 1811年11月場所 | |||
備考 | ||||
2019年6月30日現在 |
大木戸 森之助(おおきど もりのすけ、? - 1812年(文化8年)1月24日(旧暦12月11日))は、陸奥国(現:宮城県)出身[2]の元大相撲力士。本名は不明。
来歴
[編集]1804年(文化元年)3月場所において仙台藩の抱え力士となり、看板大関として初土俵を踏む[3]。当時の四股名は吹𨺜 寅右エ門(ふきがえし とらえもん)で、この四股名だった最初の2年間は土俵入りのみで相撲は取らなかった。その後、大木戸へ改名して初めて相撲を取った1806年(文化3年)2月場所では文化の大火によって5日間で打ち切られたが、5戦全勝の優勝相当成績を挙げた。この場所では柏戸利助が東関脇、玉垣額之助が西関脇でそれぞれ5戦全勝を挙げているが、番付上位制度により大木戸が優勝相当成績とされている。しかし、なぜか同年10月場所では東関脇に番付を降下させられ、4勝1敗5休の成績を挙げるが、1807年(文化4年)2月場所では東前頭2枚目まで降格させられた。大木戸はこの場所を全休し、その後も成績不振で勝ち越しは1場所も無かった(1810年(文化7年)10月場所で4勝4敗だった他は全て負け越し)[4]。
最終出場となった1811年(文化8年)11月場所では二段目6枚目まで陥落すると0勝7敗3休に終わり[5]、1812年12月11日に現役のまま死去した。初土俵から僅か7年の短い土俵人生で、勝敗数に関係無く藩の意向で番付が変動した、この時代の番付制度の最大の犠牲者だった。