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平凡パンチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
週刊平凡パンチから転送)
平凡パンチ
1967年1月30日号の新聞広告
ジャンル 男性向け週刊誌
読者対象 男性
刊行頻度 週刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
出版社 マガジンハウス
編集部名 平凡パンチ編集部
刊行期間 1964年4月28日 - 1988年
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平凡パンチ』(へいぼんパンチ)は、マガジンハウスが発行していた日本男性向け週刊誌。同社の中核を担う雑誌だった。1964年4月28日、マガジンハウスの前身、平凡出版から創刊された。

なお、同じ出版社から刊行されていた月刊誌『Monthly平凡パンチ』や、総合週刊誌『週刊平凡』とは別の雑誌である。

歴史・概要

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団塊世代後のファッション情報風俗グラビアなどを扱う週刊誌だった。隔月版としてA4サイズのヌードグラビア誌も出版していた。週刊誌としては既に休刊扱いだが、時期については下の事情から見解が分かれる。

創刊に際し、編集部は『ヒッチコック・マガジン』(1959年 - 1963年)を参考にしたとされる[1][2]。当時人気を二分していた『週刊プレイボーイ』が記事に偏重傾向であったのに対し、平凡パンチはセクシーグラビアやファッション面に長じていた。

1966年に発行部数100万部を突破、活字メディアだけではなく、ニッポン放送ラジオ番組ザ・パンチ・パンチ・パンチ』を放送。セクシーなDJとモコ・ビーバー・オリーブのパンチガール三人が人気を得た。松田聖子1980年のパンチガールの一人であり、デビューから支援することで彼女をトップアイドルに押し上げた一要素となった。1980年代中ごろ、刷新・テコ入れ策として、表紙をサトウサンペイイラストに変えたり、読者投稿欄で「トーキングジム」を開始したりした。

エイリアン』でアンドロイドのアッシュがリプリーを襲った際に使われたのは木之内みどりが表紙の1978年3月20日号の平凡パンチである。これは宇宙船の所有者が日本企業という設定だったことによるもの。

最初の休刊

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社の方針から「POPEYE」「BRUTUS」が専門カテゴリの新週刊誌として創刊し、複合展開されていくようになり、母体である「平凡パンチ」の発行部数落ち込みにつながった。かくして1988年10月、半年後の新生復活を宣言しつつ「冬眠」宣言をし最初の休刊となった。

復刊、そして再び休刊

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1989年2月9日、文字通り全面新装版として『NEWパンチザウルス』が創刊。再創刊の発行人は赤木洋一、編集人は武智京太郎。巻頭の「ザウルス宣言」には映画監督のスティーヴン・スピルバーグがメッセージを寄せている。

再創刊では他誌に流れた情報関連をコミックで補完する形式での一新を目指した。かつての読者コーナーを杉作J太郎が担当したり、プロアマ問わずの漫画家対抗戦などの企画も始まる(『ガロ』入選経験のある休石ひろふみが参加)。だが従来の平凡パンチ読者の呼び戻しも、新購読者開拓もいずれも失敗、わずか4か月で再度休刊。

パンチザウルス失敗の要因としては、セクシー路線や多少アングラ色のある記事傾向等の平凡パンチ読者が求める本質を見過ごし全くの新創刊に走ったことや、それまで漫画雑誌出版・維持のノウハウが乏しくコミック雑誌としても中途半端だったことなどが挙げられる。

主な連載漫画

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脚注

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  1. ^ 小林信彦『道化師のためのレッスン』白夜書房、1984年12月1日、162-163頁。ISBN 978-4938256746 
  2. ^ 亀和田武「作家の<秘密の日記>」 『小林信彦の仕事』弓立社、1988年7月15日、284頁。

参考文献

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  • マガジンハウス書籍編集部編『平凡パンチの時代 失われた六〇年代を求めて』(マガジンハウス、1996年)
  • 『平凡パンチ甦れ、アイドルの時代 永久保存版写真集』(マガジンハウス、2008年4月)、グラビアページの紹介
  • 塩澤幸登『平凡パンチの時代 1964年~1988年 希望と苦闘と挫折の物語』(河出書房新社、2009年12月)
  • 椎根和『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社、2007年、新潮文庫、2009年10月)
  • 赤木洋一『平凡パンチ1964』(平凡社新書、2004年)。各々、元編集者による回想記

関連項目

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外部リンク

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