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連合国遠征軍最高司令部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
連合国遠征軍最高司令部
(SHAEF)
SHAEFショルダーパッチ
活動期間 1943–1945
解散 1945年7月14日
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ
イギリスの旗 イギリス
カナダの旗 カナダ
 自由フランス
ポーランドの旗 ポーランド
ノルウェーの旗 ノルウェー
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
オランダの旗 オランダ
ベルギーの旗 ベルギー
忠誠 連合国
兵科 合同司令部
任務 作戦総軍
上級部隊 連合参謀本部
渾名 SHAEF
主な戦歴 第二次世界大戦
指揮
最高司令官 ドワイト・D・アイゼンハワー
最高司令官代理 アーサー・テッダー
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連合国遠征軍最高司令部(れんごうこくえんせいぐんさいこうしれいぶ、:Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force、略称:SHAEF)は、1943年から第二次世界大戦が終結する1945年まで活動していた、ヨーロッパ北西におけるアメリカ合衆国主導の連合国軍の司令部である。ドワイト・D・アイゼンハワー米国陸軍大将(後の第34代アメリカ合衆国大統領)が最高司令官を務めていた。SHAEFの立場自体は欧州連合軍最高司令部大西洋連合軍などと似ているが、組織として異なっていることに留意すべきである。

第二次世界大戦

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アイゼンハワーは1943年12月に地中海作戦戦域司令部から、ロンドンのキャンプ・グリフィス英語版で組織されたSHAEFへと転じた。ここに隣接した通りは、現在でもシーフ・ウェイ(Shaef Way)と呼ばれている。SHAEFの参謀らはCOSSAC(連合国軍最高司令官参謀長、Chife of Staff to the Supreme Commander Allied Forces)のサー・フレデリック・エッジワース・モーガン英語版中将とレイ・バーカー英語版少将によって立案されたオーバーロード作戦の外枠を受け取った[1]。COSSACに任命されたモーガンはアイゼンハワーと面会する前の1943年3月中頃にヨーロッパ侵攻計画を練りはじめ[2]、計画の最終策定版が1944年6月6日に実行された。計画はアイゼンハワーと、侵攻の初期段階における全地上部隊の指揮官であるバーナード・モントゴメリー大将により最終的な策定案へと形を変えていった。

侵攻が始まった後も、SHAEFは十分な戦力がフランスに上陸するまでイギリスに残されていた[3]。この時点でモントゴメリーは全地上部隊の指揮官としての任務を終了し、ノルマンディー橋頭堡東翼に展開するイギリス第21軍集団英語版の指揮を執っていた。一方、橋頭堡西翼ではオマール・ブラッドレー中将を指揮官とするアメリカ第12軍集団英語版が新たに設置されていた。ノルマンディーを突破した後、連合国軍はドラグーン作戦(南仏侵攻作戦)を発動する。この作戦はジェイコブ・L・ディヴァース英語版中将指揮下のアメリカ第6軍集団英語版が担当した。南仏侵攻開始の時点で米第6軍は地中海作戦戦域に設置された連合国軍司令部英語版(AFHQ)の指揮下にあったが、1ヶ月後指揮権はSHAEFへ譲られた。この頃までに3個の軍集団は西部戦線に展開し、以後終戦まで戦った。戦線のうち、英第21軍集団は北部、米第12軍集団は中央部、米第6軍集団は南部での作戦を担当した。1944年12月、SHAEFはフランスのヴェルサイユにあるトリアノン・パレス・ホテル(Trianon Palace Hotel)に移動した[4]。その後、1945年2月にランス、ドイツ降伏後の5月26日にフランクフルト・アム・マインへと移動した[5]

戦闘序列

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SHAEFはアメリカ陸軍自由フランス軍イギリス陸軍そしてカナダ陸軍に所属する3個軍集団(8個野戦軍)を指揮下に収めていた。これは西部戦線における単一の作戦に割り当てられた部隊としては最大規模のものである。

これら地上部隊に加え、ネプチューン作戦(オーバーロード作戦における上陸段階)において多数の海軍戦力を指揮したほか、2個戦術空軍(アメリカ第9空軍英語版イギリス第2戦略空軍英語版)を指揮下においていた。ネプチューン作戦においては、イギリスに展開する戦略爆撃戦力もSHAEFの指揮下に収められていた。

指揮官

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1944年2月1日、ロンドンでの会議にて撮影されたSHAEFの指揮官ら。
左から順に:
ブラッドレー米陸軍中将、ラムゼー英海軍大将、テッダー英語版英空軍大将、アイゼンハワー米陸軍大将、モントゴメリー英陸軍大将、リー=マロリー英語版英空軍中将、スミス米陸軍中将

第二次世界大戦終結後

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ナチス・ドイツの降伏後、連合国軍の部局としてのSHAEFは1945年7月14日に解散したが、アメリカ軍においてはヨーロッパ戦域軍(USFET、US Forces, European Theater)が役割を引き継いだ[5]。USFETは1947年3月15日にヨーロッパ軍(EUCOM、European Command)と改称された[7]

参考文献

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  1. ^ Harrison, Gordon A. (2002) [1951]. “Chapter II Outline Overlord”. Cross Channel Attack. United States Army in World War II. United States Army Center of Military History. CMH Pub 7-4. http://www.history.army.mil/books/wwii/7-4/7-4_2.htm 
  2. ^ See: Ambrose, Stephen E. (1994). D-Day. Simon & Schuster. ISBN 0-684-80137-X 
  3. ^ アイゼンハワーが前進指揮所を設置する為にノルマンディーへと移ったのは1944年8月7日朝のことである。
  4. ^ Ambrose, Stephen E. (1997). Citizen Soldiers. Simon & Schuster. ISBN 0-7434-5015-9 
  5. ^ a b Linke, Vera (2 March 2002). “Das I.G. Farbenhaus – Ein Bau der, deutsche Geschichte widerspiegelt (The IG Farben Building – A building that reflects German History)” (German). Transcript of lecture given in Frankfurt Archive No.K20840. Hausarbeiten.de. 2006年7月18日閲覧。
  6. ^ Unity of Command – Normandy Invasions”. 2 December 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月23日閲覧。
  7. ^ 今日のアメリカ欧州軍United States European Command)とは異なる。
  • Winters, Major Dick, with Cole C. Kingseed (2006). Beyond Band of Brothers: The War Memoirs of Major Dick Winters. Berkley Hardcover. ISBN 978-0-425-20813-7., page 210.

外部リンク

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