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近衛尋子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近衞尋子から転送)

近衛 尋子(このえ ちかこ、寛永15年(1638年10月 - 万治元年閏12月23日1659年2月14日))は、江戸時代前期の女性。水戸藩第2代藩主・徳川光圀御簾中。通称は泰姫(たいひめ)、台姫。院号は法光院。諡号は哀文夫人

生涯

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関白左大臣近衛信尋の娘として生まれる。母は権大納言藪嗣良の娘。

慶安2年(1649年)10月11日、父信尋が死去。慶安5年(1652年)8月頃、水戸藩の世継ぎであった徳川光国(後に光圀)との縁談がほぼまとまり、9月には幕府の承認を得る。同年の11月に光圀の庶子である頼常が誕生しているが、光圀の兄・頼重高松藩に送られて養育された。

承応2年(1653年)7月19日に兄の近衛尚嗣が没したため婚礼は延びたようで、承応3年(1654年)春に江戸に下向して水戸藩邸に入り、4月14日、光圀との婚礼が挙行された。ときに光圀は27歳、泰姫は17歳。明暦2年(1656年)、前摂政二条康道によりを「尋子」(ちかこ)と命名された。

明暦3年(1657年)1月、明暦の大火により水戸藩邸が全焼し、光圀ともども駒込の別邸に移る。8月頃からに泰姫は体調を崩し、何度か小康状態にはなったが回復せず、翌万治元年(1658年)10月から赤痢となり、閏12月23日、死去。享年21。遺体は水戸に送られ、薬王院(水戸市元吉田町)に葬られた。延宝5年(1677年)、瑞竜山に改葬。

年が明けた翌万治2年(1659年)の元旦、光圀は「元旦に藤夫人を祭る文」を書き、夫人の死を悼んだ。「……物換り、年改れども、我が愁は移ることなし。谷の鴬百たび囀れども、我は春無しと謂はん。庭の梅已に綻びたれども、我は真ならず謂はん。去年の今日は対酌して觴(さかずき)を挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。鳴呼哀しいかな。幽冥長(とこし)へに隔つ。天なるか命なるか。維(ただ)霊来り格(いた)れ。(原文漢文)」

また、実家近衛家に奉ずるため、「藤夫人病中葬礼事略」を記している。

人物・逸話

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和歌に優れ学識が高く、光圀との仲は睦まじかった。光圀に仕えた和学者・安藤年山は著書『年山紀聞』の中で、「御生質の美なるのみならず、詩歌をさへこのみ玉ひて、古今集いせ物語はそらにおぼえ、八代集源氏物語などをよく覚えたまひしとぞ。また三体詩をも暗記したまひけるとぞ」と記している。また儒学者・辻了的は、その容姿について「天姿婉順」と評している。

家集として『香玉詠藻』がある。また、漢詩二首が伝わっている。

参考文献

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  • 『水戸光圀の遺猷』(宮田正彦、1998年錦正社
  • 鈴木暎一『徳川光圀』(吉川弘文館、2006年)