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趙俁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
趙俣から転送)

趙 俁(ちょう ぐ、元豊6年(1083年)- 天会5年4月16日1127年6月4日))は、北宋神宗の十二男。哲宗の異母弟で、母は美人林氏(後の貴妃)。

経歴

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元豊6年(1083年)9月に生まれ、元豊7年(1084年)8月に成国公に封ぜられた。元豊8年(1085年)4月、兄の哲宗により咸寧郡王に封ぜられた。紹聖5年(1098年)3月、莘王に進封された。

元符3年(1100年)に哲宗が崩じた際、嗣子がなかった。皇太后向氏が不恭[1]を口実に、趙俁の後継に反対した。同年3月、帝位を継いだ兄の徽宗により衛王に再進封された。

大観2年(1108年)1月、燕王に進封された。靖康の変後、に連行された。金の天会5年4月16日(1127年6月4日)、餓死した。遺体は馬槽に納められて火葬に付された。

家族

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  • 正室:郭氏
  • 側室:王柳姑、葉三娘[2]
  • 男子:趙有章、趙有亮
  • 女子:趙巧蓀、趙飛燕[3]

みな金に連行された。

伝記資料

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  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』
  • 『曾公遺録』

脚注

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  1. ^ 哲宗の崩御後、皇太后向氏が述べたところによると、趙俁は先帝の崩御を聞いても涙を流さなかった。哲宗を臨終まで看護した者はその後、向氏がみな降格させて宮中から追い出しており、この件には証人がいなかった。
  2. ^ この2人はみな洗衣院に下された。
  3. ^ 後に金の熙宗の次妃にいたった。