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詩編51

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詩篇51篇から転送)
聖王ダヴィド(ダビデ)のイコン18世紀キジ島ロシア正教会)。

詩編51(しへんごじゅういち、英語: Psalm 50)または詩篇51第50聖詠ギリシア語: Ψαλμός 50, ロシア語: Псалом 50)はユダヤ教聖書キリスト教旧約聖書)の「詩編」51番目(正教会の聖詠経では第50番目)で、神の目に罪を犯してしまった時に、神に赦しを請う時に使う。新共同訳聖書では「神よ、わたしを憐れんでください」で、新改訳聖書(51番)では「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、」で、聖詠経では「神よ、爾の大なる(おおいなる)憐みに因りて(よりて)我を憐み、」で始まる。

テーマ

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ダヴィド(ダビデ)が、ウリヤの妻であったヴィルサヴィヤ(バテシバ)姦通したのち、夫ウリヤを死なせる事で奪って妻としたことを、預言者ナファン(ナタン)に叱責された際に詠った痛悔聖詠詩篇)と伝えられるもの[1][2]。経緯は列王記第二巻(サムエル記下)11章3節 - 12章25節に書かれている。

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詩は21節よりなっている。

01. 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
02. ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
03. 神よ、わたしを憐れんでください
        御(おん)慈しみをもって。
     深い御(おん)憐れみをもって
        背きの罪をぬぐってください。
04. わたしの咎(とが)をことごとく洗い
     罪から清めてください。

05. あなたに背いたことをわたしは知っています。
     わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
06. あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
     御目(おんめ)に悪事と見られることをしました。
     あなたの言われることは正しく
     あなたの裁きに誤りはありません。
(以上、新共同訳聖書から[3]

07/05. ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
08/06. ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
09/07. ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
10/08. 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
11/09. 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

12/10. 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
13/11. 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
14/12. あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

15/13. 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
(以上、新改訳聖書から[4]

16. 神よ、我が救いの神よ、我を血より救い給え、然せば我が舌は爾の義を讃(ほ)め揚(あ)げん。
17. 主よ、我が唇を啓(ひら)け、然せば我が口は爾の讃美を揚げん、

18. 蓋(けだし)爾(なんぢ)は祭(まつり)を欲せず、欲せば我此(これ)を獻(たてまつ)らん、爾は燔祭(やきまつり)を喜ばず。
19. 神に喜ばるる祭(まつり)は痛悔(つうかい)の霊(たましひ)なり、痛悔して謙遜なる心は、神よ、爾(なんぢ)軽(かろ)んじ給わず。

20. 主よ、爾(なんぢ)の恵(めぐみ)に因(よ)りて恩(おん)をシオンに垂(た)れ、イエルサリムの城垣(じょうえん)を建て給え。
21. 其の時に爾(なんぢ)義(ぎ)の祭(まつり)、獻物(ささげもの)と燔祭(やきまつり)とを喜び饗(う)けん、其の時に人々爾(なんぢ)の祭壇に犢(こうし)を奠(そな)えんとす。
(以上、聖詠経:第七「カフィズマ」[5]

正教会での使用

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正教会において、痛悔機密、朝の私祈祷領聖預備規程の晩祷、晩堂課早課第三時課など、使用される場面は多岐にわたり、頻繁に用いられる。洗足式との関連で、第50聖詠中の「イソプを以て我に沃げ(そそげ)、然せば(しかせば)我潔くならん、我を滌へ(あらえ)、然せば我雪より白くならん」の節(9節)が引用されて説明されることもある[6]

聖詠経と詩編における詩番号

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「50」の番号付けは正教会で使用する聖詠によるもの聖詠経などでは「第五十聖詠」と漢数字表記される。日本聖書協会訳の詩篇では第51篇に相当する。この数字の違いは、正教会の聖詠はギリシャ語七十人訳聖書を底本にしている一方で、日本聖書協会訳の詩篇がヘブライ語聖書(マソラ本文)を定本にしていることに由来する。七十人訳聖書とマソラ本文とでは区切り方が違うことから、日本正教会訳の聖詠と、日本聖書協会訳の詩篇とでは、日本語の訳文のみならず、区切り方・数え方といった構成も異なっている[7]

脚注

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  1. ^ 『聖詠經』101頁 - 104頁、日本正教会翻訳 昭和63年再刊
  2. ^ 日本正教会祈祷書ではダビデは「ダワィド」、バテシバ(バト・シェバ)は「ワィルサワィヤ」と転写されている。いずれも教会スラヴ語表記のロシアにおける再建音の転写より、"в"(v)音をワ行で転写したもの。本稿では「ヴ」行で転写した。
  3. ^ 新共同訳「」詩編50~99
  4. ^ 詩篇51篇(新改訳の節番号は新共同訳と2つの差がある。)
  5. ^ 聖詠経 2版 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 弟子の足を洗うハリストス~写本挿絵より - 大阪ハリストス正教会
  7. ^ 『山手・上毛教会報』山手ハリストス正教会、2008年11月号

関連項目

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外部リンク

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