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神明裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
試練による裁判から転送)
神明裁判。中央の女性が熱した鉄棒を握って見せている[1]

神明裁判(しんめいさいばん)とは、神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の宗教によって異なる。ヨーロッパでは神判[注釈 1]Trial by ordeal)、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。

試罪法[2]とも。

西洋の神判

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水審による神判を受ける人。司祭が口上を読み上げ、手足を縛った被告を水に沈める。沈んだままなら無罪、浮かべば有罪である[注釈 2]

神判とは

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中世ヨーロッパ国家には捜査や取り調べといった治安維持をつかさどる組織はほとんど存在せず[注釈 3]、告発された者の有罪無罪を判断する方法は限られていた。神判は、神の奇跡をたよりに真実を知る方法であり、当時の民衆から支持されていた裁判方法である[5]

政治的局面でも神判が用いられることがあった。王が誰かに嫌疑をかけてその真実性を知るために神判を利用[6]したり、逆に疑われた者が自ら神判を申し出ることもあった[7]。申し出て神判に成功すれば、神のお墨付きを得た者として、自分の立場が強化されるからである。宮廷では神判は、このような駆け引きの道具としての一面を有していた。

裁判の流れ

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以下は裁判の進め方の一例である[8]。裁判の構成員は原告と被告のほか、裁判長と判決発見人ならびに裁判集会に集まった近隣住民である。勝訴した者は贖罪金を取り立てることができる。執行官のような立場の者は存在せず、実力で償金等を回収する必要があった[9]

  1. 原告となる被害者またはその友人等が、被告を裁判集会に呼び出すことで始まる。裁判長が両者を召喚するといった現代の手続とは異なる。
  2. 被告は、原告の主張を認めるか、否定するかを選択する。認めれば5に移行。
  3. 否定した場合、雪冤宣誓(せつえんせんせい、後述)により証明する。
  4. 雪冤宣誓に失敗した場合、もしくは雪冤宣誓が許されない場合、神判を行う。
  5. 雪冤宣誓・神判の結果を踏まえ、判決発見人が判決提案を行う。
  6. 裁判集会に集まった人々が判決提案に賛同すれば、判決として確定する。

神判の種類

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西洋の神判は、キリスト教聖職者が執り行うことになっていた。準備として水ないし鉄に清めの儀式をほどこす。司祭が決められた口上を読み上げて、神に真実のうかがいを立てる厳粛なものであった。神判そのものには、ヨーロッパ各地で多様な神判が行われていたし、その方法も統一されてはいなかった。

適用範囲と他の方法

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神判は証拠がなく無罪を証明できないときに、主に以下のような場合に用いられた。しかし神判の適用範囲は時代・地域によってかなり大きい。

  1. 訴追された者の身分が低い場合、友人が少なく宣誓者を用意できない場合[10]
  2. 被告が評判悪しき者である場合[11]
  3. 不貞など性に関わる犯罪を調べる場合[12]
  4. 信仰上の嫌疑すなわち異端の疑いがある場合[13]
  5. 魔女裁判
決闘による裁判もまた、神の意思を顕現するものとして、神判の一種と考えられていた

信仰(異端)や性(姦通など)といった、証拠は得られないが、さりとて判断の留保も許されない事件に、神判がよく用いられる傾向にあった[14]。また神判を免除された人々もいた。すなわち市民権を有する正規都市民、貴族などである[15]。キリスト教の儀式であるため異教徒とくにユダヤ人も神判の対象外とされた[10]。このような場合、以下のような別の方法が用いられる。

雪冤宣誓
12名の仲間によって被告の人格保証を行う。被告は正直者であると誓う行為であり、証人とは異なる。
決闘
1対1で戦って勝った方を勝訴とする。代闘士を立ててもよい[16]

発端と展開

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ヨーロッパの神判はフランク族を起点[17]とする考え方が主流であり、もとはフランクの風習であったと考えられている。史料では510年に見られるのが中世ヨーロッパでは最初だが、記録が少なく初期の実態はほとんど分かっていない。史料が増えるのはシャルルマーニュ治世の89世紀ごろからである。

神判の広がりは、キリスト教布教の広がりと一致するところが大きい。ドイツなどゲルマン系諸民族に行き渡り、12世紀には東欧ロシアにまで広がったという記録がある[18]。ゲルマン諸族がキリスト教化していくなかで、当時のキリスト教もまた一定程度ゲルマン化し、神判という風習を組み込んでいった。

批判

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神判は聖書や教会内にそのルーツを持つものではなく、したがって神判を正当化する理論上の困難は自明のことである。神判の普及と軌を一にして、神判批判もまた大きくなった。神判の結果の曖昧さや神判そのもののごまかし[19]などで疑念を持つ者も市井にはいた。しかし主な神判批判の担い手は、当時の知識人である聖職者であった[20]。なかでも著名なのは9世紀のアゴバールと12世紀のペトルスである。

リヨンの大司教アゴバール(779頃–840)がなした神判批判とは、神学の枠内からの主張である。彼の主旨は以下のようなものである[21]

  • 神の裁きは簡単ではなく、隠れたものである。聖書には善い人が悪い人たちに殺される事例が多く出てくるのであり、分かりやすく悪人に罰がくだるとは限らないのだ。使徒パウロも、第三の天に挙げられながら、神の裁きを理解しがたいと叫んでいる。
  • もし、火や鉄によって真理が見出されることを神が望んでいたのなら、すべての裁判は神判によるべきである。裁判官や行政官を個々の都市ごとに設けることを神が望むはずもないし、書面の証拠や証人・宣誓で片がつくのも神の意に反する行いのはずである。
  • 以上をまとめれば、鉄や火などによって真理が見出され得ないのは明らかである。

時代がくだると、教会内部でスコラ学ローマ法が盛んに研究され、合理的思考が芽を出すようになった[22]。神判に関しても以前より合理的な批判がなされるようになる。神学者でありパリ大学教授でもあったペトルス・カントールの論点[23]をかいつまむと、以下のようになる。

  1. 教会では、罪を犯した者は、神に罪を打ち明けて悔い改めれば罪は洗い清められる。であれば、悔い改めた真犯人は神判で無罪となるはずである[24]
  2. 神判は苦痛を伴うがゆえに、ありもしない容疑を着せて人を神判に追い込む讒訴(ざんそ)が横行している。
  3. 神判には一定したルールがない。地域によってその手続・口上がまちまちである。神の判断を仰ぐのに形式が固まっていないのは不都合であるし、そもそも困難さの度合いにもばらつきがあり、裁判の公平さに疑念がもたれる。

従来は自然現象はことごとく神の「みわざ」とされていたが、ギリシャ哲学などの流入により、自然現象を合理的に説明できるようになっていく。スコラ学はこうした知見をもとに信仰と理性の合一をはかったもので、理性による信仰を目指した。13世紀ごろピークを迎え、のち近代的合理的精神の祖となる。神判はこのようなスコラ学とは相容れない、迷信的で野蛮な風習なのであった。と同時に、民間では最も支持された判定方法でもあった[5]

廃止とその効果

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前項のような学問的下地を受けて1215年ラテラン公会議において、教皇インノケンティウス3世は聖職者が神判に関わることを禁じた[25]。神判は神の奇跡を前提とするのであるから、司祭なしに継続させることは難しかった[26]。さまざまな歴史学上の論争があるものの、神判が衰えていくのはこの公会議が契機であったことはおおむね了解されている[27]

この禁止令を受けて神判は、ヨーロッパ全土で次第に下火になっていく。1216年デンマーク1219年イングランドでの神判廃止は、当時としては迅速な反応と言えた。合理主義者として有名な神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世1231年メルフィの勅令において神判を用いることを禁止した[28]。教皇の権威が届きやすい地域や教皇に従順な支配者のいる場所では禁令は素早く、そうでない地域はなかなか浸透しなかった。ドイツは教皇と対立していたうえ小領主の分権化が進んでおり、教皇の意思伝達が困難であった。地域によっては聖職者に神判主宰を強要することもあり、民間ではなお神判信仰は根強かったことが窺われる[29]バルカン半島地域では16世紀にもまだ神判が行われていた[30]し、下って19世紀にも神判らしき風習の記録が残っている[31]

この神判廃止によって、それまで未分化であったキリスト教のsin)と刑法上の犯罪crime)が次第に分かれていったと指摘されている[32]。訴訟・取り調べから聖職者が引くことで、各地の王たちは神の権威に頼らずに訴訟を処理しなければならなくなった。叙任権闘争によって王は聖職上の権力を失い、また教会は世俗権力から独立的地位を確保した[33]。こうして聖と俗が分離し、さらに刑事法民事法が分かれたのもこの頃であり、法制史上の転換点とされる。

神判が廃止されても犯人特定のための方法は必要である。代替手段は地域によってまちまちであったが、雪冤宣誓に頼ったり、陪審制度を整備する地域もあった。しかしヨーロッパでもっとも多用されるのは、自白を得るための拷問であった[34]。中世後期・近世を通じて拷問は広く使われることになる。拷問は自白を得るのにもっとも簡便な方法であったが、冤罪を多く生み出す結果ももたらした。拷問廃止に流れが傾くのは遠く18世紀啓蒙思想の登場を待たねばならない[35]

神判の存在意義

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科学捜査など望むべくもない時代において、事件の犯人を知る手段は限られていた。とにもかくにも「一件落着」させる現実的方法の需要があった。それぞれの立場で神判を必要としている人々がいたのである。

神判はキリスト教にとっては、有力な布教のツールであった[36]。もとは当地の風習と折り合うために容認したものであったが、聖職者が神判を主宰することで、神判は身内の儀式ではなく社会的拘束力を持つ裁判手続となりえた。神判で有罪か否かを判定してみせることで、キリスト教の神の正しさ・優位性を人々に示すことができた[37]

王や諸侯といった世俗支配者は、神判を便利な道具として活用していた[38]。神判を行う場所や立ち会いを規定することは、王の権力を分かりやすく見せつける一種のプロパガンダ効果があった。それどころか、政敵に嫌疑をかけて神判を強制することすら行われた[6]

民衆のレベルでは、中世当時に合理的思考はほとんど浸透しておらず、世界のできごとや自然現象はすべて神の意志によるものと考えられていた。近代的な意味での真実など求められてはいなかったのである[5]。神判のような儀式で罪の有無を決することは、当時の人々にとって、まことに正しきことであり、何より神判は証拠や雪冤宣誓などよりずっと盛り上がるイベントであった。

神判以外に有罪無罪を決するには雪冤宣誓がしばしば利用されたが、この宣誓に対しては根強い不満があった。特に貴族階級が集団でフェーデの名のもとに盗賊まがいの乱暴狼藉を働き[39]、その彼らが仲間内で雪冤宣誓の人数を揃えれば無罪となる。当時の人々もこれは容認するところではなく、神判は雪冤宣誓への不満を解消する良い方法なのであった[40]

日本

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  • 隋書』倭国伝には、7世紀の日本で熱湯や蛇を用いた神明裁判が行われていたことが記録されている。

うけい

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盟神探湯

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参籠起請

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鎌倉幕府が行った神明裁判で、当事者ないし被疑者に、自身の主張に偽りがないという起請文を書かせた上で一定期間神社(鶴岡八幡宮北野天満宮)の社殿に参籠(お籠もり)させ、その期間内に彼ら自身あるいは家族に異変(「失」と呼ぶ)が生じるか否かで判決を下した[41]

鎌倉幕府は文暦2年(1235年)に何が「失」にあたるのかに関して追加法を定めた。その中では参籠期間は7日間、何も起こらなければ7日間延長し、それでもなお何も起こらなければ「惣道の理」、すなわち一般常識により処断すること、鼻血等の出血は「失」にあたるが月経による出血は「失」にあたらないことなどを規定している[42]

平安時代後期から既に参籠起請に似た神明裁判が行われていたことが確認できる。大治3年(1128年)6月に大神末貞と珍友成は豊前国宇佐八幡宮に「神判祭文」を提出し「神判」を行っている。「失」の検出は翌年3月に及んでおり、鎌倉幕府の参籠起請と異なる点も存在する(「小山田文書」)[43]

古今著聞集』に、平安時代後期の鳥羽法皇女房小大進という者が、待賢門院の御所から御衣が紛失したことについて嫌疑をかけられ、祭文を書いて北野天満宮に参籠する説話が載せられている[44]

参籠起請は室町時代にも行われ、応永元年(1394年)に東寺で行われた参籠起請では2通の牛玉法印の裏に起請文をしたため、1通を燃やしてその灰を神水に溶かして飲み、もう1通を不動明王の仏前に置くという手続きを踏んでいる[45]

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落書起請・無名判

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起請文付の無記名投票によって犯人を評決する。

湯起請

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火起請

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  • ルイス・フロイス平戸島の春日村で1576年に起きた米の盗難事件について行われた神明裁判を『日本史』中で記録している。村人は皆キリシタンだったので村長は村人を教会に集め、十字架の根元から木片を切り取り、それを燃やした灰を水に入れ、主(デウス)に誰が盗みを働いたかを明かし賜えと祈ることに決め、その水を皆で飲んだ。犯人は身体が膨れだし、罪を白状したという[46]

その他の神明裁判

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  • アイヌ社会では日本の盟神探湯に類似した「サイモン」が行われていた。菅江真澄は『えぞのてぶり(続)』において熱湯裁判と熱鉄裁判を紹介している。ジョン・バチェラーもアイヌ社会での神明裁判を記録している[47]。考古学者の瀬川拓郎は「サイモン」の名称について、中世の日本本土において湯起請を取り仕切っていた陰陽師修験者が語る「祭文」に由来する、との説を唱えている[48]
  • 16世紀末に琉球で行われていた神明裁判について僧定西が記録しており、その方法は毒蛇によるものである(『定西法師琉球物語』)[49]
  • シエラレオネナイジェリアカラバルでは、アルカロイド(フィゾスチグミン)の毒をもったカラバル豆英語版の抽出液を飲ませ、生き残れば無罪とする。この豆の毒素は無罪の自信があるものが一気に飲めば嘔吐反応が起きて吐きだされて助かるが、心にやましいものを持つものが恐る恐るゆっくり飲むと吸収されて死に至るという性質を利用したものである[50]
  • マダガスカルでは、配糖体の毒を持ったタンギンCerbera tamghinミフクラギの近縁種)の抽出液を飲ませ、生き残れば無罪。
  • ミャンマーでは、両者がロウソクの火を燈し、先に消えたほうが敗訴。
  • ヒンドゥー教では、不貞の疑いをかけられた妻が焚き火の上を通り抜けて、火傷しなければ貞節と判定する。
  • 中国の東晋時代(4世紀ころ)に記された志怪小説捜神記』によれば、扶南(現在のベトナム南部からカンボジア付近に存在した国家)の王・范尋は、被疑者の真偽を探るに当たって熱湯に入れた金の指輪をつかみ取らせた。被疑者が無実なら無事だが、有罪なら火傷を負うという。范尋はこれ以外にも、被疑者をトラワニに投げ与え、無事なら無罪と判定する神明裁判を行っていた[51]

脚注

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注釈

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  1. ^ 西洋史ではほぼ神判と呼ばれるので、西洋の神判の節ではそれに倣う。たとえば、勝田[他]『概説西洋法制史』、バートレット『中世の神判』、山内『決闘裁判』、赤阪『神に問う』などはいずれも「神判」としている。
  2. ^ 神聖で純粋な水は有罪な人間を排除しようとすると考えられていた[3]
  3. ^ 西ローマ帝国滅亡後のヨーロッパ諸族の王国は、中世前期においては国というよりいまだ部族のまとまりという様相であり、犯罪者を捜査したり処罰したりする専門の機構も有していなかった。フランク王国の例につき、[4]

出典

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  1. ^ ロベール、p.162
  2. ^ 関本, 栄一中世英詩「梟とナイティンゲール」論 -特に法律用語を中心として- 長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1971, 12, p.53-64
  3. ^ ロベール、p.163
  4. ^ 勝田[他]、p. 67
  5. ^ a b c 科学的真実に重きをおく考え方は、クーン科学革命以降の発想である。山内進によれば、中世ヨーロッパの人々は、自然界を支配するのは神の超自然的な力であると信じていたという。「この世のあらゆる出来事は、神または神々の意思の発露であった。神や神々は人間の行為を見守っており、そのありとあらゆる帰結はその意図に即している。人はただそれに従いさえすれば、それでよい」。山内、pp. 29-30。また、トリスタンとイゾルデの物語を引きながら、以下のように説明する。「今日の常識からすると、不倫の成否と物理的現象である火傷の有無は、やはりそれ自体関連がない。それにもかかわらず、中世の人々が神判を信じたのは、神が自分たちの行動や心の中を、そして何が真実で何が虚偽かを見通し、正しい方法で願えば結果を明らかにしてくれる信念があった」。だからこそキリスト教が神判に関与し得たと指摘する。同、p. 69
  6. ^ a b そのような場面ではしばしば王は神判をごまかして「必勝を期す」ことが知られていた。バートレット、p. 17およびpp. 26-27
  7. ^ バートレット、p. 25。
  8. ^ 単純化した流れである。決闘により決着する場合や被告が逃亡することもあり、実際にはより多岐にわたる。この項全体について、岩村[他]、pp. 80-81
  9. ^ 赤阪、p. 98。贖罪金の場合は2/3が原告・被害者(の親族)へ、1/3が国王に帰する。つまり裁判は国王にとって重要な収入源であり、訴訟制度の財源化は当時の特色である。贖罪金を払えない貧しい者は、死罪として処刑された。岩村[他]、p. 81および勝田[他]、pp. 66-67
  10. ^ a b バートレット、p. 49。もっとも、農奴・隷農は神判を受けることすら許されず、嫌疑がかかればすなわち有罪となる場合もあった。赤阪、pp. 102-105。イングランドでは外国人には神判を強制していた。また、ユダヤ人はキリスト教徒でないため神判を免除されていた。聖職者も通例神判を免除されていたが、司祭が自ら神判に臨んだ記録はいくつか残っている。また都市自由民は、自治権を獲得していくなかで、国王から神判免除の特権を得ることが多かった。バートレット、pp. 84-85
  11. ^ 赤阪、p. 105
  12. ^ 赤阪、p. 66
  13. ^ バートレット、pp. 33-37
  14. ^ バートレット、p. 33,51
  15. ^ 貴族については上述のように対立関係にある王が神判を強要したり、自ら申し出て神判を行う場合もあったが、いずれにせよ高い身分の者が神判を受ける場合、代理を雇うことになる。ティートベルガの神判はその一例である。中フランクの王ロタール2世は、子のいない正妻と離縁して、愛人と結婚しようと考えた。そこで妻ティートベルガに獣姦・近親相姦の疑いをかけた。疑いを向けられたティートベルガは家臣の一人に釜審を受けるよう命じた。はたして家臣は釜審に成功し、多少の悪あがきもむなしくロタールの離婚は成らず、中フランクはロタールの庶子ではなくシャルル2世が継承することになった。赤阪、pp. 200-201、バートレット、p. 23
  16. ^ これを神判の一種とする考え方もある。赤阪、など。
  17. ^ たとえば、バートレット、p. 8。ただし先史・古代には世界各地で神判らしき制度風習が存在した。ヨーロッパの神判の起源をインドに求める主張もあるが、いずれにせよ記録が少なく、全体像を見渡せる状況にない。山内、pp. 64-65
  18. ^ 神判はヨーロッパ全土で広がる一方で、イタリアなど当時の文化的先進地域ではあまり行われなくなっていたという指摘もある。バートレット、p. 42
  19. ^ バートレット、pp. 66-68
  20. ^ 教会外の世俗の人々からの批判はかなり限られる。イングランド王ウィリアム2世オランダ貴族マグヌスなどが知られているが、前者の発言は「彼は異常者だからこんなことを口走った」体で紹介されているし、後者は自ら神判にかけられそうになった場面で自己の利益のために主張していた。いずれにせよ、周囲の賛同を得るにはほど遠い状況だった。バートレット、p. 118
  21. ^ この部分につき、アゴバルドゥス、pp. 171-179。また、バートレット、pp. 112-113
  22. ^ グレゴリウス7世らによって主導された教皇革命は、教会内部からおきた合理的宇宙観・世界認識のもとに、ヨーロッパを部族的社会の色濃い中世から、近世へと転換する契機になった。勝田[他]、p. 106および山内、p. 70
  23. ^ 赤阪、pp.203-204
  24. ^ 実際に女たらしで悪名高い漁師が姦通で訴追されたエピソードがある。この男は訴追された通りの罪を犯したのであるが、罪を告白して悔い改めて熱鉄審に成功し、公衆の面前で潔白を証明したという。バートレット、pp. 124-1125
  25. ^ バートレットによれば、神判廃止のためには以下3条件が充足される必要があり、これが満たされるのが13世紀であったという。バートレット、p. 152
    • ローマカトリック教会内の当事者が、神判は悪いと確信すること。懐疑的では足りない。これにはローマ法・スコラ学の研究が進む必要があった。
    • 改革グループが教会内で指導的立場を得ること。ペトルスの影響を強く受けたインノケンティウスが教皇となったことで、この条件は充足された。
    • 教会管理組織がトップからの指令に対応できるように整備されていること。聖職叙任権闘争に勝利するまでは、教会は国王たちに従属的であり、王たちは各王国の最高位聖職者であった。各教会の司祭を任命するのも各地支配者の権限に属していた。教皇は叙任権闘争によってようやく教会の独立を確保したのであり、これにより教皇の影響力を一定程度確保し得た。勝田[他]、pp. 106-107
  26. ^ バートレット、p. 154。および山内、p. 74
  27. ^ 山内、pp. 73-74
  28. ^ 山内進『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景――』 講談社 2000年(講談社現代新書1516)(ISBN 4-06-149516-X)74-76頁。
  29. ^ バートレット、p. 153。司祭に神判主宰を強要した点につき、バートレット、p. 150
  30. ^ バートレット、p. 202
  31. ^ 1836年ハンガリーにおいて、魔女の疑いをかけられた老婆を海に投げ入れ、浮いたので老婆を殴り殺した記録がある。山内、p. 58
  32. ^ 赤阪、p. 232およびバートレット、p. 125
  33. ^ 聖職叙任権闘争につき、勝田[他]、pp. 106-107
  34. ^ 岩村[他]、p. 95、赤阪、p. 235およびバートレット、p. 206
  35. ^ 拷問が冤罪を生むことの危険性を認識されるようになったのは18世紀のことである。イタリアの法学者ベッカリーアは、拷問による自白の強制は気の弱い者を有罪に、頑強な悪党を無罪にするものだと指摘した。岩村[他]、p. 119、および西田、p. 22
  36. ^ 赤阪、pp. 162-163
  37. ^ 山内、p. 31
  38. ^ バートレット、p. 60
  39. ^ 中世のヨーロッパは「また暴力的だった。人びとの感情の起伏は激しく、行動は刹那的だった。(略)社会全体が、暴力に対して肯定的」であった。時代背景とフェーデにつき、勝田[他]、pp. 108-109
  40. ^ バートレット、p. 80
  41. ^ 清水 2010, pp. 16–17.
  42. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月28日閲覧。
  43. ^ 小林, 宏 (1969). “我が中世に於ける神判の一考察”. 國學院法学 7 (1): 1-27. CRID 1390295447137030272. doi:10.57529/00001056. 
  44. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月28日閲覧。
  45. ^ 清水 2010, p. 33.
  46. ^ 清水 2010, p. 79.
  47. ^ 清水 2010, p. 208.
  48. ^ 瀬川 2015, pp. 244–247.
  49. ^ 清水 2010, p. 207.
  50. ^ 保刈 1963, p. 240-241.
  51. ^ 竹田 2000, p. 81.

参考文献

[編集]
  • 赤阪俊一『神に問う-中世における秩序・正義・神判』 嵯峨野書院、1999年。 ISBN 4782302851
  • 岩村等・三成賢次・三成美保『法制史入門』 ナカニシヤ出版、1996年。 ISBN 4888483159
  • 勝田有恒・森征一・山内進編『概説西洋法制史』 ミネルヴァ書房、2004年。 ISBN 462304064X
  • 清水克行『日本神判史』中央公論新社、2010年。ISBN 978-4-12-102058-1 
  • 西田典之『刑法総論 第2版』 弘文堂(法律学講座双書)、2006年。 ISBN 4335304439
  • 山内進『決闘裁判-ヨーロッパ法精神の原風景』 講談社(講談社現代新書 1516)、2000年。 ISBN 406149516X
  • アゴバルドゥス「神の判決について」大谷啓治訳。上智大学中世思想研究所監修『中世思想原典集成 6 カロリング・ルネサンス』、pp.171-199所収。平凡社、1992年。ISBN 4582734162
  • R・バートレット『中世の神判-火審・水審・決闘』 竜嵜喜助訳、尚学社、1993年。 ISBN 4915750248
  • 保刈成男『毒薬』雪華社、1963年3月。全国書誌番号:63003858NCID BA42443908 
  • ロベール・ドロール、桐村泰次訳『中世ヨーロッパ生活史』論創社、2014年。ISBN 9784846013158
  • 瀬川拓郎『アイヌ学入門』講談社、2015年2月。ISBN 978-4062883047 
  • 竹田晃『捜神記』平凡社、2000年1月。ISBN 978-4582763225 


関連文献

[編集]
  • 中田薫「古代亜細亜諸邦に行はれたる神判」『法制史論集 第3巻』岩波書店、1943年。
  • 渡辺澄夫「中世社寺を中心とせる落書起請に就いて」『史学雑誌56巻3号』冨山房、1943年。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
  • ウィキメディア・コモンズには、神明裁判に関するカテゴリがあります。