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リクエスト合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リクエスト合戦
愛称 リクエスト合戦 / バラエティ番組
ジャンル リクエスト番組
放送方式 録音
放送期間 1959年11月1日 - 1987年10月4日
放送時間 日曜 10:00 - 10:30
放送局 ニッポン放送
パーソナリティ 塚越孝
テーマ曲 ディク・ショーリ楽団「パーカッションの休日」[1]
特記事項:
1959年11月1日から1962年9月30日までは朝日放送と共同制作[2]
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リクエスト合戦(リクエストがっせん)は、ニッポン放送で、1959年11月1日から1987年10月4日に放送されていたリクエスト番組である。

概要

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毎週男女一組ずつのゲストを迎え、対戦ごとにリクエスト曲を1曲ずつ出し合い、クイズやゲームで勝った方のリクエスト曲のみを放送するという番組形式[3]。本番組スタート当初のタイトルは「グリコリクエスト合戦 〜どちらをかけましょう〜」。なお、第1回放送から1962年9月30日までは朝日放送ラジオと共同制作で放送され、この当時は東京対大阪の「東西対抗」という趣向も見られた。朝日放送ラジオでの放送は、1962年9月30日を以って終了、この後はニッポン放送単独製作となった[2](大阪地区でのネットも、1980年4月にラジオ大阪で再開されるまで中断されることとなったほか、ラジオ大阪でのネット終了後、3ヶ月の中断期間を経てMBSラジオでネットを再開し最終回まで放送された)。

1969年10月5日から収録スタジオを当時東京銀座西銀座デパート内に在った「西銀座サテライトスタジオ」に移し、タイトルを「西銀座リクエスト合戦」(にしぎんざ - )に改題、この時から公開放送となる。1974年4月7日からは伊勢丹新宿本店内に在った「アベニュースタジオ」に移って、タイトルも「新宿リクエスト合戦」(しんじゅく - )に変わった。公開放送時代は、収録は日曜日または祝祭日に行われていた[4]

新宿からの公開放送は1976年9月26日で終了、この後は放送拠点が再びニッポン放送本社スタジオに戻る。1984年グリコ・森永事件の影響を受け、本番組開始時からのスポンサーだった江崎グリコが降板し、その後は福助がスポンサーを受け継いでタイトルが「フクスケリクエスト合戦」に変わり、このタイトルで最終回まで放送されていた。

1987年10月、ニッポン放送の日曜午前の7時台から11時台の編成見直し・『スーパー電リクサンデーヒットパラダイス』の開始に伴い、『不二家歌謡ベストテン』とともに終了。28年の歴史に幕を下ろした。

放送時間

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  • 日曜:10:00 - 10:30(ニッポン放送での放送時間)

その他の局での放送時間

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近畿広域圏に於いて、朝日放送 → ラジオ大阪 → 毎日放送と放送された局が変わっていった。

朝日放送(ABCラジオ)
  • 毎週日曜日 12:00〜12:30(1959年11月1日〜1959年11月29日)[2]
  • 毎週日曜日 10:30〜11:00(1959年12月6日〜1962年9月30日)[2]
ラジオ大阪
  • 毎週日曜日 9:30〜10:00(1980年4月6日〜1980年4月27日)
  • 毎週日曜日 10:30〜11:00(1980年5月4日〜1984年4月29日)
毎日放送(MBSラジオ)
  • 毎週日曜日 9:00〜9:30(1984年8月5日〜1985年4月7日)
  • 毎週日曜日 11:30〜12:00(1985年4月14日〜1987年10月4日)

歴代司会者

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いずれも当時のニッポン放送アナウンサー。

  • 村上正行(初代、「新宿リクエスト合戦」時代まで)
  • 今仁哲夫
  • 高嶋秀武(1976年〜1985年3月)
  • 塚越孝(1985年4月〜1987年10月4日)

脚注

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  1. ^ ラジオライフ』第2巻第3号、三才ブックス、1981年5月1日、88頁。 
  2. ^ a b c d 朝日放送の50年(朝日放送社史編修室 編、2000年)資料集 p.91
  3. ^ ラジオライフ』第2巻第3号、三才ブックス、1981年5月1日、82頁。 
  4. ^ 季刊ランラジオ(自由国民社)1975年3月号 p.70

関連項目

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ニッポン放送 日曜日 10:00~10:30枠
前番組 番組名 次番組
紅白対抗歌のゲーム
グリコリクエスト合戦
(西銀座リクエスト合戦)
(新宿リクエスト合戦)

フクスケリクエスト合戦