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西村数

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西村一意から転送)

西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日[1])は、日本俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意[2](かずおき[3])。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任[4]

人物

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鹿児島県谷山村(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける[2]1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業[5]した後、神宮皇學館で学び[2]卒業[3]

1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選[6]。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ[2]1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事[6]1939年(昭和14年)に27歳で鹿児島に戻り[2]、同年より鹿児島市立女子興業学校勤務、1944年(昭和19年)より鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)勤務[3]。国漢教員として勤めながら鹿児島ホトトギスの世話をする[2]。戦後は、鹿児島ホトトギスの機関誌として「郁子(むべ)」を1949年(昭和24年)に創刊し、その発行に力を注いで、誌上では虚子俳句の研究も発表した[6][4]1954年(昭和29年)にラジオ俳壇選者、1956年(昭和31年)に西日本新聞鹿児島版の俳句選者となる[6]1957年(昭和32年)11月、鹿児島ホトトギス会員で協力して桜島に虚子の句碑を建立[4]。教育者としては鹿児島県立鶴丸高等学校(旧制第一鹿児島中の後身)教頭を経て[4]1964年(昭和39年)より鹿児島県立加世田高等学校校長、1970年(昭和45年)より鹿児島商業高等学校校長を務め、1972年(昭和47年)退職[3]。その後は鹿児島市教育委員会指導課長、鹿児島経済大学(現・鹿児島国際大学)事務局長を経て、1980年(昭和55年)から1982年(昭和57年)まで鹿児島経済大学国文学講師を務めた[3]

主な著書に句集『早梅』、句集『初花』、随想『あしの芽』、『南日本歳時記』(共著、大岳水一路と共編)がある[3]。その他、多数の句集、随筆、教本などを残す[2]。『南日本歳時記』の執筆など地域に根ざした活動が評価され[6]1981年(昭和56年)に南日本文化賞を受賞[6][3]1985年(昭和60年)勲四等瑞宝章[6][3]。同年、「ホトトギス」八月号の巻頭を飾る[6][2]2006年(平成18年)、肺炎のため94歳で逝去[6][1]

伝統俳句に徹して[2]、抒情的な句に特色がある[4]

脚注

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  1. ^ a b 『現代物故者事典2006~2008』(日外アソシエーツ、2009年)p.484
  2. ^ a b c d e f g h i 児玉美術館-西村数 2019年9月23日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h 『鹿児島県風土記』(芳即正 塚田公彦 監修、旺文社、1995年)481-507頁「鹿児島県人国記 平成七年八月現在」
  4. ^ a b c d e 南日本新聞社・編『郷土人系 下』(春苑堂書店、1970年)217頁
  5. ^ 鹿児島県立甲南高等学校『甲南 五十周年記念誌』(1957年)110頁および鹿児島県立甲南高等学校創立百周年記念事業同窓会実行委員会『樟風遙か』(2006年11月)259頁参照
  6. ^ a b c d e f g h i 稲畑汀子・編『ホトトギスの俳人101』(新書館、2010年)