蜷川親世
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(蜷川親俊から転送)
山形県寒河江市の墓、土佐壇 | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 永禄12年11月14日(1569年12月21日) |
改名 | 親俊(初名)→親世 |
別名 | 新右衛門尉(通称)、道哉(法名)、道齋 |
墓所 | 山形県寒河江市の土佐林 |
官位 | 大和守 |
幕府 | 室町幕府 政所代 |
主君 | 足利義晴→義輝 |
氏族 | 蜷川氏 |
父母 | 父:蜷川親順 |
兄弟 | 親世、斎藤利賢室 |
子 | 切手局、親長、斎藤親三 |
特記 事項 | 蜷川親俊日記 |
略歴
[編集]蜷川氏は代々足利将軍家に仕え、室町幕府政所代を務めた。父は蜷川親順。姉妹は斎藤利賢の妻で明智光秀の家老斎藤利三の母。
生涯
[編集]蜷川親順の長男として誕生。はじめ室町幕府12代将軍足利義晴に仕え[1] 、13代将軍足利義輝の下では政所代を務める。丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城[2]に拠ったが、永禄5年(1562年)、上司でもある政所執事の伊勢貞孝・貞良父子が討たれると逼迫し、出羽国庄内藤島城主土佐林禅棟と庄内下向について計画を始める[3][4]。ただし、伊勢貞親父子が討たれた原因の1つとして貞親が職権を利用して不法に徳政免除を認定していた事実を親世が告発したからであるとする指摘もある[5]。やがて、永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に弑殺されると、ついに親世は所領を捨て逐電した。
その後出羽国寒河江荘の高松楯[6]主高松左門(高松氏)[7]を頼って落ち延びるが、出羽国村山郡金谷原(現寒河江市柴橋)で永禄12年(1569年)11月14日に死去、金谷原の土佐林に葬られた。親世の墓は土佐壇[8]と呼ばれている。
天文7年(1538年)から天文11年(1542年)までの直筆日記と、天文18年(1549年)から天文21年(1552年)まで残簡を含む「蜷川親俊日記」を遺した。
義輝死後、四国に逃れた長男の蜷川親長は長宗我部元親、後に徳川家康に仕え、子孫は旗本として血脈を残した。
周辺系図
[編集](斎藤利三の父母には諸説ある)
斎藤親三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蜷川親順 | 親世 | 親長 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親満 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明智光安妻 | 女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎藤利賢 | 石谷頼辰 | 女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎藤利三 | 春日局 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | 斎藤親三 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石谷光政 | 長宗我部信親 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長宗我部元親 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 『史料総覧』第9編910冊63頁、天文8年(1539年)足利義晴の命で細川晴元の元へ赴き三好長慶との和睦を仲介した。
- ^ (地図)
- ^ 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』1994年、751-752頁。
- ^ 「尊経閣文庫」「蜷川文書」
- ^ 松村正人「室町幕府政所頭人伊勢貞孝-その経営基盤と行動原理をめぐって-」『白山史学』35号、1997年。/所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第四巻〉、2018年、183-184頁。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ (地図)
- ^ 大江氏の流れを汲む寒河江氏の一族。
- ^ (地図)
出典
[編集]- 東京大学史料編纂所データベース『資料総覧』