蛯名信広
蛯名 信廣(えびな のぶひろ、1952年10月30日 - 2009年4月3日)は、騎手(日本中央競馬会)、調教師(日本中央競馬会)。千葉県出身。JRA調教師で元騎手の蛯名正義は遠縁にあたる(正義の祖父の甥が信広[1])。
経歴
[編集]1968年3月に中山競馬場・成宮明光厩舎所属の騎手候補生となり、1974年3月に中央競馬の騎手としてデビューした(成宮厩舎所属)。1975年から3年間、兄弟子の蛯沢誠治が運転免許不正取得事件に連座(書類送検の上で起訴猶予。逮捕には至らず)して騎乗停止処分を受けた際には、成宮厩舎の主戦騎手を務めていた。
1975年の毎日王冠では病気の高橋司に代わって「白い逃亡者」の異名をとるホワイトフォンテンに騎乗し、7番人気で逃げ切り重賞初制覇。
1977年12月、成宮厩舎を離れフリーの騎手となるが、1978年3月には中山競馬場・久保田金造厩舎の所属騎手となる。以降の重賞3勝は、全て久保田厩舎の管理馬で挙げたものである。
1985年3月、久保田厩舎を離れ再びフリーの騎手となる。
1993年2月に調教師試験に合格したことにより、騎手を引退して調教師に転身した。騎手時代の通算成績は284勝(うち重賞6勝)。翌1994年3月に美浦トレーニングセンターに厩舎を開業。
1999年には管理馬のタイキヘラクレスが統一GIのダービーグランプリを優勝した。
2009年4月3日、美浦トレセン内の北馬場にある角馬場で管理する3歳牡馬の障害練習に立ち会い、地面に置いた丸太をまたがせる初期調教を行っていたところ、馬の後ろ側に回って動くように促し引き綱で叩いた際、馬が暴れて後ずさりし、後肢で胸部を蹴られ死亡した[2]。56歳没。死因は右胸部打撲による心肺停止[2]。調教師が馬に蹴られる事故で死亡したのは中央競馬では初のケースだった[3][4]。
死去に伴い、4月4日付けで鹿戸雄一調教師(久保田厩舎所属時代の後輩にあたる)に臨時貸付けを行い、管理馬全頭は鹿戸厩舎へ転厩した[5]。
成績
[編集]騎手時代
[編集]通算3486戦284勝(重賞6勝)
- 重賞優勝
- 毎日王冠(1975年、騎乗馬ホワイトフォンテン)
- アラブ大賞典(秋)(1976年、騎乗馬アイノハヤテ)
- 目黒記念(秋)(1977年、騎乗馬ブルーハンサム)
- 札幌記念(1978年、騎乗馬タイホウヒーロー)
- ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(1984年、騎乗馬ニッポースワロー)
- 七夕賞(1984年、騎乗馬ホクトキンパイ)
- その他の主な騎乗馬
調教師時代
[編集]通算2573戦153勝(重賞2勝)
- 重賞優勝
脚注
[編集]- ^ 蛯名正義氏“競馬場デビュー”は皇帝シンボリルドルフに勝ったあの馬と
- ^ a b 障害練習中まさか…馬に蹴られ蛯名信広師死亡
- ^ 地方競馬では2004年に船橋競馬場所属の調教師であった函館喜弘が同様の事故が原因で死亡している。
- ^ 『週刊Gallop 2009年4月12日号』(産業経済新聞社)、163頁。
- ^ 蛯名信広調教師、逝去