藤本俊彦
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(藤本強士から転送)
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 徳島県徳島市 |
生年月日 | 1971年5月1日(53歳) |
身長 体重 |
184 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 外野手、捕手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト4位 |
初出場 | 1991年9月29日 |
最終出場 | 1991年10月6日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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藤本 俊彦(ふじもと としひこ、1971年5月1日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)。1994年から1995年までの登録名は藤本 強士(ふじもと つよし)。
来歴・人物
[編集]徳島商業高から、1989年のプロ野球ドラフト会議でオリックス・ブレーブスから4位指名を受け入団。
当初は捕手登録ながらファームでも外野手として出場。2年目の1991年終盤に4試合一軍出場しただけで、その後は一軍には出場する事なく1995年に現役を引退。
引退後は実家の造園業を継いだ。
妻は元バレーボール選手である山内美加[1]。娘二人の父親であり、その娘達はともに年代別日本代表候補のバスケットボール選手である[2]。長女の藤本愛妃は富士通レッドウェーブ、次女の藤本愛瑚はENEOSサンフラワーズ所属[3]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1991 | オリックス | 4 | 5 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 |
通算:1年 | 4 | 5 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 |
記録
[編集]- 初出場:1991年9月29日、対西武ライオンズ26回戦(西武球場)、9回裏に右翼手で出場
- 初先発出場:1991年10月1日、対福岡ダイエーホークス26回戦(グリーンスタジアム神戸)、8番・左翼手で先発出場
- 初安打・初打点:同上、吉田豊彦から
背番号
[編集]- 32 (1990年 - 1995年)
登録名
[編集]- 藤本 俊彦 (ふじもと としひこ、1990年 - 1993年)
- 藤本 強士 (ふじもと つよし、1994年 - 1995年)
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 月刊バレーボール 1997年7月号 50ページ
- ^ “両親とも元トップアスリート U-19代表バスケ美女を直撃”. 日刊スポーツ. (2017年5月26日)
- ^ “【Wリーグ開幕】JX-ENEOSが11連覇へ好発進 次世代を担う選手の活躍に期待”. SPAIA. 株式会社グラッドキューブ: p. 2. (2018年10月24日) 2019年1月21日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 藤本俊彦 - NPB.jp 日本野球機構