吉田資経
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 養和元年(1181年) |
死没 | 建長3年7月15日(1251年8月3日) |
改名 | 資経→乗願(法名) |
別名 | 号:吉田大弐 |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流吉田家 |
父母 |
父:吉田定経、母:平親範の娘 養父:吉田経房 |
兄弟 | 資経、経賢、為定、経親、光経、能経、弁経、定愉、房通、経舜、経子、水無瀬信成室 |
妻 |
藤原親綱の娘、藤原範季の娘 妾:神崎遊女 |
子 | 為経、経俊、高経、万里小路資通、資継、経海、経尊、藤原親俊室 |
吉田 資経(よしだ すけつね、旧字体:吉田 資󠄁經)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家勧修寺流吉田家、参議・吉田定経の長男。官位は正三位・参議。『平家物語』の作者にも擬せられている。
経歴
[編集]文治4年(1188年)従五位下に叙爵。文治6年(1190年)信濃守に任ぜられ、少年受領となる。建久4年(1193年)三河守に遷り、建久6年(1195年)従五位上に昇叙。正治元年(1199年)父の出家により祖父・経房の養子となって家督を継いだ。
建仁3年(1203年)正五位下に叙せられ、建永元年(1206年)中宮権大進に任ぜられる。承元3年(1209年)には左衛門権佐を務め、建暦2年(1213年)防鴨川使となる。建保2年12月(1215年1月)五位蔵人に補任され、建保6年(1218年)右少弁に任ぜられることで、三事兼帯を果たした。同年春宮大進を兼任。
建保7年(1219年)従四位下権右中弁に叙任。まもなく左中弁に転じた。承久3年(1221年)従四位上蔵人頭に叙任され、皇后宮亮を兼ねた。
承久4年(1222年)正四位下右大弁に叙任される。同年参議に任ぜられて公卿に列し、貞応2年(1223年)には近江権守造東大寺長官を兼帯する。貞応3年(1224年)従三位に叙せられるが、弁官と造東大寺長官を辞任して大宰大弐に任ぜられた。翌年には参議を辞退し、安貞2年(1228年)に正三位に叙せられた。天福2年(1234年)出家して法名を乗願とした。
仁治元年(1240年)閏10月、父の遺領を異母弟・経賢と争っている(『平戸記』)。建長2年(1250年)に所領や家に伝わる記録などを子息に配分して、翌建長3年(1251年)7月15日に71歳で薨去した。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 文治4年(1188年)10月19日:従五位下に叙す(上西門院令爵)。
- 文治6年(1190年)正月24日:信濃守に任ず。
- 建久4年(1193年)8月25日:三河守に遷る(熊野神宝用途功)。
- 建久6年(1195年)3月12日:従五位上に叙す(祖父東大寺供養行事)。
- 建仁3年(1203年)正月7日:正五位下に叙す。
- 建永元年(1206年)7月11日:中宮権大進に任ず。
- 承元3年(1209年)4月4日:左衛門権佐に任ず。
- 建暦2年(1213年)5月29日:防鴨川使に任ず。
- 建保2年12月15日(1215年1月16日):五位蔵人に補す。
- 建保6年(1218年)
- 正月13日:右少弁を兼ぬ。
- 2月17日:蔵人・左衛門権佐を辞す。
- 11月26日:春宮大進を兼ぬ。
- 建保7年(1219年)/承久元年
- 正月21日:左少弁に転ず。
- 11月26日(1220年1月3日):権右中弁に転じ、従四位下に叙す(去年日吉行幸行事)。
- 承久2年(1220年)正月22日:左中弁に転ず。
- 承久3年(1221年)
- 8月20日:蔵人頭に補す。
- 11月16日:従四位上に叙す。
- 12月1日(1222年1月14日):皇后宮亮を兼ぬ。
- 承久4年(1222年)
- 正月17日:正四位下に叙す(皇后宮入内)。
- 4月13日:右大弁に転ず。
- 11月3日:参議に任じ、弁・亮如元。
- 貞応2年(1223年)正月27日:近江権守を兼ぬ。2月1日:造東大寺長官を兼ぬ。4月10日:皇后宮亮を止む。
- 貞応3年(1224年)正月23日:従三位に叙す。10月16日:造東大寺長官・右大弁を止み、大宰大弐を兼ぬ。
- 嘉禄元年12月22日(1226年1月21日):参議を辞す。
- 安貞2年(1228年)3月20日:正三位に叙す(安嘉門院御給行幸。同院院司)。
- 寛喜元年(1229年)10月9日:大宰大弐を止む。
- 寛喜3年(1231年)2月13日:服解(父)。
- 天福2年(1234年)6月23日:出家。法名乗願。
- 建長3年(1251年)7月15日:薨去。享年71。
系譜
[編集]出典
[編集]- 『尊卑分脉』第二篇、吉川弘文館、2007年