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葛飾戴斗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
葛飾北泉から転送)
葛飾戴斗
ヒト
性別男性 編集
国籍江戸幕府 編集
読み仮名かつしか たいと 編集
生年月日1810不明な値 編集
出生地江戸 編集
死亡年月日1853不明な値 編集
埋葬地豊岡市 編集
職業浮世絵師印刷職人 編集
師匠葛飾北斎 編集
活動地東京都 編集
活動開始1815 編集
活動終了1853 編集
時代江戸時代 編集
コレクション所蔵者国立世界文化博物館メトロポリタン美術館シカゴ美術館 編集
作者の著作権状態著作権保護期間満了 編集

葛飾 戴斗(かつしか たいと、生没年不詳)とは、江戸時代浮世絵師

来歴

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葛飾北斎の門人。姓は近藤、名は文雄。通称は伴右衛門、喜三郎。斗円楼北泉、洞庭、洞庭舎、玄龍斎、米華斎、米華山人、米華道人、野竹、閑観翁、昇山などとも号す。もと但馬国(現兵庫県豊岡藩小笠原家の藩士として江戸に生まれた。初め上野山下に住み、後に平河町に移ったといわれる。

北斎の門に入り斗円楼北泉と称したが、文政3年(1820年)に葛飾北斎から「戴斗」の号を譲られ二代目戴斗を名乗り、葛飾戴斗、玄龍斎戴斗と号す。戴斗は北斎が文化8年(1811年)頃から文政2年頃まで使用した画号であった。その作品は高い評価を受けていたという[1]。北泉と称した時には『北斎漫画』二編の刊行に尽力した。作画期は文政から嘉永の頃にかけてで、作域は広く肉筆画の他、版本の挿絵、錦絵なども手がける。画風は北斎の画法を最も忠実に継いでいるが、『浮世絵師人名辞書』はこの戴斗について「…後大阪に至り、偽りて自ら北斎と称す、人卑みて犬北斎又は大阪北斎と呼べり」と記している。墓所は豊岡市三坂の旧瑞泰寺。門人に戴岳、北涯がいる。

作品

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版本

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  • 『二十四孝図会』一冊 ※文政5年(1822年)刊行
  • 英雄図会』一冊 ※文政8年(1825年)刊行
  • 万職図考』一冊 ※「文政丁亥」(文政10年)の序あり
  • 花鳥画伝』二冊 ※嘉永元年(1848年)から翌年にかけて刊行
  • 絵本通俗三国志』全七十四巻。※湖南文山訳・池田東籬亭校訳[2]
  • 『小紋雛形』一冊 ※刊行年不明
  • 『戴斗画譜』一冊 ※刊行年不明
  • 『武者鏡』 ※刊行年不明

肉筆画

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作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款・印章 備考
神功皇后と武内宿禰図 絹本着色 双幅 浮世絵太田記念美術館
鍾馗図 紙本墨画 1幅 大倉集古館 1830年(文政13年) 款記「政[3]庚寅 葛飾戴斗」/「昇山」方印[4]
柴刈農夫喫煙の図 絹本着色 1幅 たばこと塩の博物館 款記「葛飾戴斗」/「北斎」印
若菜摘む美人図 絹本着色 1幅 日本浮世絵博物館
若衆図 絹本着色 1幅 摘水軒記念文化振興財団
富士観覧図 紙本淡彩 1幅 キヨッソーネ東洋美術館
軍鶏図 1幅

脚注

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  1. ^ 吉田暎二『浮世絵事典上』 画文堂 1971年
  2. ^ 『絵本通俗三国志』(全12巻、落合清彦校訂、第三文明社、1982-83年)
  3. ^ 実際は、「政」の異字体(上が「正」 下が「攵」)。
  4. ^ 『大倉集古館五百選』 財団法人 大倉文化財団、1997年、p.37。

参考文献

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  • 桑原羊次郎 『浮世絵師人名辞書』 教文館、1923年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[1]
  • 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[2]
  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※66頁
  • 岩崎均史 『風俗画と肉筆浮世絵』 たばこと塩の博物館、2007年
  • 『北斎一門肉筆画傑作選 北斎DNAのゆくえ』 板橋区立美術館、2008年 ※110頁、121頁

関連項目

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