葛飾戴斗
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(葛飾北泉から転送)
葛飾戴斗
性別 | 男性 |
---|---|
国籍 | 江戸幕府 |
読み仮名 | かつしか たいと |
生年月日 | 1810、不明な値 |
出生地 | 江戸 |
死亡年月日 | 1853、不明な値 |
埋葬地 | 豊岡市 |
職業 | 浮世絵師、印刷職人 |
師匠 | 葛飾北斎 |
活動地 | 東京都 |
活動開始 | 1815 |
活動終了 | 1853 |
時代 | 江戸時代 |
コレクション所蔵者 | 国立世界文化博物館、メトロポリタン美術館、シカゴ美術館 |
作者の著作権状態 | 著作権保護期間満了 |
葛飾 戴斗(かつしか たいと、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。
来歴
[編集]葛飾北斎の門人。姓は近藤、名は文雄。通称は伴右衛門、喜三郎。斗円楼北泉、洞庭、洞庭舎、玄龍斎、米華斎、米華山人、米華道人、野竹、閑観翁、昇山などとも号す。もと但馬国(現兵庫県)豊岡藩小笠原家の藩士として江戸に生まれた。初め上野山下に住み、後に平河町に移ったといわれる。
北斎の門に入り斗円楼北泉と称したが、文政3年(1820年)に葛飾北斎から「戴斗」の号を譲られ二代目戴斗を名乗り、葛飾戴斗、玄龍斎戴斗と号す。戴斗は北斎が文化8年(1811年)頃から文政2年頃まで使用した画号であった。その作品は高い評価を受けていたという[1]。北泉と称した時には『北斎漫画』二編の刊行に尽力した。作画期は文政から嘉永の頃にかけてで、作域は広く肉筆画の他、版本の挿絵、錦絵なども手がける。画風は北斎の画法を最も忠実に継いでいるが、『浮世絵師人名辞書』はこの戴斗について「…後大阪に至り、偽りて自ら北斎と称す、人卑みて犬北斎又は大阪北斎と呼べり」と記している。墓所は豊岡市三坂の旧瑞泰寺。門人に戴岳、北涯がいる。
作品
[編集]版本
[編集]- 『二十四孝図会』一冊 ※文政5年(1822年)刊行
- 『英雄図会』一冊 ※文政8年(1825年)刊行
- 『万職図考』一冊 ※「文政丁亥」(文政10年)の序あり
- 『花鳥画伝』二冊 ※嘉永元年(1848年)から翌年にかけて刊行
- 『絵本通俗三国志』全七十四巻。※湖南文山訳・池田東籬亭校訳[2]
- 『小紋雛形』一冊 ※刊行年不明
- 『戴斗画譜』一冊 ※刊行年不明
- 『武者鏡』 ※刊行年不明
肉筆画
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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神功皇后と武内宿禰図 | 絹本着色 | 双幅 | 浮世絵太田記念美術館 | |||
鍾馗図 | 紙本墨画 | 1幅 | 大倉集古館 | 1830年(文政13年) | 款記「政[3]庚寅 葛飾戴斗」/「昇山」方印[4] | |
柴刈農夫喫煙の図 | 絹本着色 | 1幅 | たばこと塩の博物館 | 款記「葛飾戴斗」/「北斎」印 | ||
若菜摘む美人図 | 絹本着色 | 1幅 | 日本浮世絵博物館 | |||
若衆図 | 絹本着色 | 1幅 | 摘水軒記念文化振興財団 | |||
富士観覧図 | 紙本淡彩 | 1幅 | キヨッソーネ東洋美術館 | |||
軍鶏図 | 1幅 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 桑原羊次郎 『浮世絵師人名辞書』 教文館、1923年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[1]。
- 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[2]。
- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※66頁
- 岩崎均史 『風俗画と肉筆浮世絵』 たばこと塩の博物館、2007年
- 『北斎一門肉筆画傑作選 北斎DNAのゆくえ』 板橋区立美術館、2008年 ※110頁、121頁