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萩原哲晶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
萩原哲昌から転送)
萩原 哲晶
別名 てっしょう、デクさん
生誕 (1925-05-26) 1925年5月26日
出身地 日本の旗 日本北海道岩見沢市
死没 (1984-01-13) 1984年1月13日(58歳没)
東京都
学歴 東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)
ジャンル ジャズ、映画音楽、コミックソング
職業 作曲家
担当楽器 クラリネット
活動期間 1955年[要検証] - 1983年

萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶[注釈 1]1925年大正14年)5月26日[2][3] - 1984年昭和59年)1月13日[4][2])は、日本の作曲家

経歴

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北海道岩見沢市で病院長の家庭に生まれる[3]。弟の萩原秀樹はジャズピアニスト。旧制北海中学を経て、1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科に入学(クラリネット専攻)[3]。同級に岩井直溥早川博二がいた。戦時中は團伊玖磨芥川也寸志斎藤高順梶原完たちと陸軍戸山学校軍楽隊に入隊[5][3]。素人の養成機関の軍楽隊に音楽学校の生徒が入る背景には、乗杉嘉壽から山口常光(戸山軍楽隊)、山口から阿南惟幾へ話の持ち込みがあり、全く便宜を計る必要がない音楽学校の生徒である彼等は特例中の特例で、いわゆる徴兵から逃げた。彼等なりに苦労もあったが、宮沢昭は年上の彼等が上流階級ゆえに贅沢をしていたことを証言している。1945年(昭和20年)に東京音楽学校を卒業。1948年(昭和23年)、第2次「南里文雄とホットペッパーズ」でハナ肇と知り合う[6][3]1949年(昭和24年)、「萩原哲晶とデューク・オクテット」を結成[6][3]。1952年(昭和27年)[6]、「萩原哲晶とデューク・セプテット」での活動を経て、1955年(昭和30年)4月1日ハナ肇犬塚弘らとともに、クレージーキャッツの前身である「ハナ肇とキューバン・キャッツ」の結成に参加するも、作曲に専念するため後に脱退[3]

「スーダラ節」などクレージーキャッツのほとんどの曲で作曲・編曲を手がけた[3]。クレージーキャッツの映画化作品の音楽も多数担当したほか[3]前田武彦作詞の『エイトマン』主題歌や、『おくさまは18歳』などのコメディ色の強いテレビドラマで音楽を担当した。マーチ調の明るい曲を得意とし、特にイントロや間奏で全世界を照らすかのごとく輝きわたる金管は彼の真骨頂である。

クレージーキャッツのための作品では、青島幸男による毒の強すぎる原詩に対し、毒を抜きながらユーモアの要素を強めた詞の改変を提案してもおり、青島自身によれば[7]「無責任一代男」の青島原詩のオチが単に「馬鹿」であったのを、ユーモラスな揶揄の「ごくろうさん!」に、「ドント節」の原詩の「クビには」を「パアには」変えたのは、いずれも萩原の提言によるという。

名前の「萩」を「」、「晶」を「」と誤表記される事が多く、「スーダラ節」の初発盤レコード(東芝音楽工業、JP-1300)ではこの誤った名前でクレジットされている[注釈 2]。その他、音楽を担当した映画のクレジットやクレージーキャッツ関連書籍のいくつかにもこの誤りが見受けられる。一方で「てっしょう」と誤読されることも多く、これも通称として認めていた[8]。仲間うちでの愛称は「デクさん」。このニックネームは、巨根の持ち主であったことに由来するという[9]

1984年1月13日、中咽頭腫瘍のため58歳で逝去。

没後、大瀧詠一1986年にクレージーキャッツの「実年行進曲」を作曲・編曲した際に、萩原の編曲手法に着想を得た事から萩原を「原編曲」としてクレジットしている。ちなみに大瀧は萩原サウンド愛好家で、クレージーキャッツファンであった。

逸話

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  • 函館港の待合室で、萩原は新聞を読んでいた。やがて異臭を感じた植木等がよく見ると、萩原のコートがストーブに触れており、そこから微かに煙が上がっていた。「デクさん、もうちょっと離れた方がいいですよ」と植木から注意されても萩原は生返事をするだけで動かず、新聞を読み続けていた。やがてコートが燃え始めたので、植木は「コートが燃えてますよ」と言ったが、萩原は「知ってます」と答え、なおも新聞を読み続けた[10]
  • 生涯に7回結婚している。「七回結婚したなんて、やっぱり凡人に分からない魅力があったんだろうね」と植木は語っている[11]
  • クレイジーキャッツの面々は、萩原に「えー、みなさん、新しい譜面が出来上がりましたから、明日3時に来てください。練習しますから」と呼びかけられ、翌日3時に全員が集まった。しかし稽古の直前に萩原が「あっすみません。譜面を家に忘れてきました」と言い出したため、練習は中止になってしまった。そのような出来事が1度や2度ではなかったという[12]
  • 萩原の芸大器楽科時代の同級生にトランペット奏者の早川博二がいる。あるとき、仕事前に野球の試合をして埃まみれになった萩原が銭湯で頭を洗っていると、早川から「お湯かけてあげましょうか」と言われ「あー申し訳ありませんねー」と応じたが、早川が萩原の頭にかけたのは小便であった。しかし萩原は自分が放尿されていることに気付かなかったという[12]

代表曲(作・編曲)

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参加作品

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映画

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テレビ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 本名が「萩原」でなくなったのは、死の直前に他家の養子になったことによる[1]
  2. ^ 1982年の同一ジャケットデザインでの再発売盤(東芝EMI、T06-1005)では修正されていた。
  3. ^ 第3話より。平尾昌晃と共同で担当。

出典

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  1. ^ 戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.135参照
  2. ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「5月26日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、143頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  3. ^ a b c d e f g h i 小林淳 2022, pp. 247–250, 「第六章 奇想天外映画に華美な光彩を加える音場 [1964、1965] 五『大冒険』」
  4. ^ 萩原哲晶 SOCKETS人物データベース
  5. ^ 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年)
  6. ^ a b c 山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.34
  7. ^ 『植木等のみなさんおそろいで』p.15における青島の発言。
  8. ^ 『シンプジャーナル』別冊「大滝詠一のゴー!ゴー!ナイアガラ」 1984年 自由國民社
  9. ^ 戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.73
  10. ^ 戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.72
  11. ^ 戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.136
  12. ^ a b 『植木等のみなさんおそろいで』p.14における植木等の発言。

参考文献

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  • 小林淳『東宝空想特撮映画 轟く 1954-1984』アルファベータブックス〈叢書・20世紀の芸術と文学〉、2022年5月14日。ISBN 978-4-86598-094-3